海外生活体験者・社会人インタビューvol.42〜前編〜

interviewee_s_108_profile.jpg 久松伸一さん。1951年生まれ。北海道滝川市出身。大学卒業後、建具メーカーに就職するも、2年で退社し、渡英。以後、アルバイトをしながら、およそ70カ国を放浪。1985年に帰国後、地元企業で「翻訳・通訳・コンベンション業務」に従事。長野オリンピック、パラリンピック、スペシャルオリンピックの通訳責任者をはじめ、札幌で開催されたノルディックスキー世界選手権のチーフ通訳コーディネーターなどを歴任。現在も地元企業に所属し、「地域のイベント・コンベンション支援」をテーマに活動中。

今回インタビューを受けていただいたのは、株式会社イベント・コンベンション・プロ(E.C.PRO)にて、MICEアドバイザーとして業務をされている久松伸一さんです。彼の豊富な海外経験と、北海道活性化への熱き思いを語っていただきました。

MICE : Meeting、Incentive、Convention/Congress、Event/Exhibitionからなる造語。イベント誘致による地域振興。

株式会社イベント・コンベンション・プロ(E.C.PRO) :
http://www.ec-pro.co.jp/mice.htm

書を捨てて旅に出よう!

―久松さんが、海外に行かれたきっかけは何でしょうか?

そうですねぇ。日本の閉塞感が嫌になったからですかね。

最初は、東京で建具メーカーに勤務したんですよ。でも、入社1年目を過ぎたあたりから、もう、この会社は辞めたいと思っていました。「部長席に行くには20年かかる」と言われたんです。歩いて5、6メートルくらいしかない、しかも同じフロアの部長席に座るだけなのに、20年もかかるとはどういうことかと(笑) また、私は当時から北海道で働きたいと思っていたのですが、その思いも叶いそうにありませんでした。そのような経緯で、日本の閉塞感が嫌になったんです。

海外には元々興味がありました。だから、昼は会社で働いて、夜はアルバイトというムチャクチャな生活をしながらお金を貯めました(笑) ちなみに、当時はまだドル相場が300円以上の時代でしたから、国外に持っていけるのも3000ドルまでだったんですよ。100万円近く貯め終わった入社2年目の年に、その会社を退職したんです。

―と言うと、事前に計画を立ててというよりは、衝動的に海外へと?

そうですね(笑) 当時は、寺山修二の「書を捨てて街を出よう」とか、ヒッピーとかが流行っていた時代ですからね。社会全体で「古い体質を変えよう!」という雰囲気に包まれていたんですよ。それもあって、比較的後先考えずに海外へ出ましたね。

「スーパー旅行家」兼「スーパーアルバイター」

―海外では、主にどのようなことをされていたのですか?

旅ばかりしていました(笑) 最初は2年間海外を旅して回って、お金が尽きたので一旦帰国しました。その後、またアルバイトをしてお金を貯めて、次は5年間世界を旅して回ってきたんですよ。

最初は、イギリスに行きました。そこで3ヶ月間、英語の勉強をしました。英語を教えてくれるスクールみたいなところに行って。その後は一時帰国まで、ヨーロッパをいろいろ回りましたね。「ユーレイルパス」とか使って。

―「ゆーれーるぱす」ですか?

ヨーロッパの鉄道に3ヵ月乗り放題の切符(EurailPass)ですよ。「ぐるり北海道フリー切符が3ヵ月有効」みたいなもんです。

―ああ!(笑)

次の5年間の旅行は、ヨーロッパだけでなく、もっといろいろ行きましたよ。そして、期間も長かったので、旅行中に現地でアルバイトなんかもしていました。パリで皿洗いのアルバイトもしましたし、北欧にいたときは、浮世絵の複製の訪問販売のアルバイトもしましたよ(笑) 質の悪い和紙に浮世絵を印刷している人たちがいて、それを売るのに日本人を集めて訪問販売をするんです。それが、結構買ってくれるんですよねぇ(笑)

―「日本人の画家の卵が、浮世絵を描いて売り歩いている」と、訪問されたほうは思ってしまいますよね(笑)

その通りですね(笑) 他にも、サウジアラビアに行ったときは、石油開発事業で現地にいた技術系の日本人の人たちのところで、スーパーバイザーとして勤務をしたりもしましたよ。イランやイラクにも行ったことがあります。

―中近東の地域は、イスラム教徒以外へビザを発行しなかったり、パスポートにアラビア語表記がないと入国できなかったりと聞いたことがあるのですが。

そうなんですか? 私が行った頃は少なくとも、それほど問題はなかったかなぁ。そうそう、東欧にも行ったことがあるんですけど、その時もそれほど問題を感じたことはなかったですねぇ。少なくとも、個人レベルとしてはですけど。

北国に愛をこめて

―ECに勤務されるようになったきっかけは?

5年の海外旅行を終えて帰国したときには、もう32歳でした。その後、札幌に本社のある株式会社イー・シー (当時EC)に就職したんです。ECに勤務し始めたのは、当時の会社の理念にすごく共感していたからなんですよ。昔、北海道は自前で通訳者、翻訳家を調達することができなかったんです。1972年の札幌オリンピックの時も、ほとんどの通訳者は東京から来てもらっていましたし。東京から有能な通訳者を呼ぶと、交通費や宿泊費、食費まで出さなくてはなりません。札幌でイベントが行われているのに、その利益はほとんど東京へ持っていかれてしまうんです。

―まさにMICEですね。

その通りです! そんな中、当時のECは北海道をMICEで盛り上げようという気概に溢れていました。「地場の通訳・翻訳のプロを育てよう!」「国際的な仕事が、北海道でもできるように!」「地産地消を!   東京に頼りっぱなしではダメだ!」といった具合に。事実、全国区で影響力のある英会話教室が数多くある中で、北海道ではECが特に強く支持されていました。「地元のために」と仕事をしていたから。

ただ、残念なことに、ECは06年夏に道外本社の会社に売却され、07年6月には道外の親会社に吸収合併され、株式会社イー・シーという社名も登記抹消となってしまったんです。札幌に本社があれば、お金の流れが全て把握できますから、地元貢献が容易に出来ます。しかし、道外本社では、どうしても地元貢献が見えなくなってしまう部分が出てきます。

20年以上も地元企業で働いてきた私は、「北海道で働きたい」「北海道に貢献したい」という気持ちを変えることはできませんでした。ですから、吸収合併した道外企業を後にして、現在の地元企業イベント・コンベンション・プロでやってみようということになったんです。

脱・東京

―EC時代から現在まで、主にどのようなお仕事をされてきたのでしょうか?

「MICEアドバイザー」とある通り、北海道でのMICE誘致について尽力してきました。ECに入社した当時は、先ほどお話した通り、札幌や北海道には通訳家、翻訳家が少なかったんです。特に、通訳者などを東京から呼んでいるだけでは、MICEを誘致しても効果が存分に活かされませんし。

具体的には、まず、同時通訳機材の購入から始めました。発信機や無線レシーバーといった代表的なものから、照明や音響、映像などの機器まで、通訳をする上で必要な機材を集めたのです。こうすることで、価格決定権を得ることができました。

例えば、「50万円かかります」とこちらが提示したときに「すみません、今30万円しか予算が……」とお客さんが言ったとしても、自分たちで機材を持っているならば「では、30万円でやりましょう」と言うことができます。誰かから機材を借りて行うと、こうしたことができなくなってしまいますからね。努力の甲斐あって、北海道でのMICE誘致活動は以前よりもだいぶ普及してきました。

会議の同時通訳者に関しては、時々東京から呼んでいるのが現状です。年に10数回しか仕事の機会がない北海道と、月に10数回仕事のある東京とでは、東京の通訳者の能力が数倍上なのは当然です。ですから、「特別な専門分野で、最高に能力のある方を」というお客様には、東京の同時通訳者を、「そこまで能力は求めない」というお客様には、積極的に地元の通訳者を紹介しています。

国際会議運営のヘゲモニーを、東京から少しずつ北海道へ移してきました。現在は、「北海道通訳アカデミー」という通訳者専門養成機関もあります。北海道で有能な通訳者を養成することは、もはや地元に対しての使命みたいなものですから。いつまでも、道外企業の植民地ではいられませんからね(笑) 後編はこちら>>
interviewee_s_41_profile.jpg 木村荘一郎。1987年生まれ。神奈川県相模原市、栃木県足利市、米国オハイオ州ダブリン市、東京都三鷹市と転々とし、現在は札幌市在住。Dublin Jerome High Schoolを卒業後、北海道大学に進学し、経済学部3年に在籍。秋からのロシア留学に向けて、経済学とロシア語の勉強に没頭中。