海外生活体験者・学生インタビューvol.60

interviewee_s_97_profile.jpg 工藤香緒里さん。1985年横浜生まれ。2歳になる前に日本を離れ、バーレン、イギリスに滞在後、7歳で帰国。横浜の小学校を卒業後、12歳から18歳までブラジルで過ごす。サンパウロ日本人学校の中学部に通い、高校からグレーデッドアメリカンスクールに編入。高校最後の一年を目前にしてマレーシアに移り住む。クアラルンプールのイ ンターナショナルスクール(ISKL)を卒業後、一人で帰国。現在は早稲田大学第一文学部4年に在学中。

とにかくアメリカ人になってやろうと決心

―工藤さんは12歳から18歳までブラジルのサンパウロにいたということですが、そこで一番印象に残ったことは何ですか?

日本人学校からアメリカンスクールに移ったことが、私の中では一番大きなことでした。日本人学校は少人数で、のんびりしていて、先生との距離も近かったですし、すごく平和で楽しい学校生活だったんですね。それが、アメリカンスクールは様々な国の人で溢れていて、今まで何て自分は小さな世界で生きてきたんだろうと愕然としたんです。こんな広い世界があるんだと、すごくインパクトを受けました。

―アメリカンスクールに入って、どうやって馴染んでいきましたか?

まず、ノイローゼになるくらい、毎日死ぬ気で勉強を頑張りました(笑) みんなが15分で出来る簡単な宿題も、私は5時間かけて徹底的に向き合ってこなしていったんです。その頃は電子辞書を持っていなかったので、分厚い辞書で一つ一つの単語を調べながら、根気強く机に向かっていました。

あとは、積極的にアメリカの映画を観たり音楽を聴いたりしました。育ってきた環境が違うので、言葉の壁以上に周りの学生と話が合わないという状況に直面したんです。少しでも周りの話題についていけるように、週末に映画を必ず4本観ると自分に課して、アメリカ文化を勉強するように観ていました。「あ、その映画いいよね」と言えるだけで、会話が弾み、周りとつながりを持つことも出来ると思ったので、文化の面でも追いつこうと必死でしたね。

それから、バレーボール部に入っていたことも大きかったように思います。アメリカンスクールでは、トライアウトをくぐり抜けて、9年生から12年生まで、ずっとVARSITYのバレーボール部に所属していました。英語がうまく喋れない、マイノリティの日本人ということに私は劣等感を感じていたのですが、バレーボール部に入ったことで、「あの子はバレーボール部に入っている子だよね」と、周りが認識してくれたのは自信につながったように思います。

―いつぐらいから向こうに慣れ始めたなーって感じましたか?

10年生の後半ですかね……。入学してすぐに逃げ道がないことに覚悟を決めて、とにかくアメリカ人になってやろうと決心しました。それから一年半くらい経ってから、だんだんアメリカ人化していったんですよ(笑) 例えば、夢を英語で見だしたりだとか、大袈裟な手振りを会話に取り入れたりするようになりました。

ちょうどその頃、母との会話の中で私がアメリカ人のようなジェスチャーで応えたことにすごくびっくりされたことがあったんです。「香緒里はそんな子じゃなかった」と(笑)  無意識のうちに出たちょっとした仕草だったので、母に言われるまで気づきませんでした。私は、それはアメリカンスクールのカルチャーを内面化した証拠だと感じて、すごくうれしかったんです。

日本とちゃんと向き合わないといけない

―向こうで一番ショックだったことは何ですか?

あるとき日本語が喋れなくなってしまったことです。英語力がすごく延びた時期に、日本語力がガクンと落ちたんです。そしてある日、日本語が全く出てこなくなってしまったことがありました。身近な家族との会話も出来なくなってしまって、本当に落ち込んだんですね。何のためにそれまで私は英語を頑張ってきたのかわからなくなり、一種のアイデンティティ・クライシスに陥りました。

アメリカ人になろうとそれまで頑張ってきたんですが、日本語を喋れなくなってショックだということは、結局私は日本人であり、アメリカ人にはなり切れないということに、このとき初めて気づきました。日本ってなんだろう? 日本語が喋れない私は日本人なのか? といった疑問がわくようになり、日本とちゃんと向き合わないといけないなと思うようになりました。この問題と向き合わないと、この先、前には進めないと感じたんですよね。そして、日本の大学への進学を決めました。

―そのときに日本の大学進学を決めたんですか?

そうですね。一度ここで日本に戻って暮らさないと、日本人の基盤が出来なくなってしまうと感じました。日本人としての自分を確立するためにも、日本の大学に進学しようと決めました。

帰国してボサノバに感動する

―その後、日本に帰国し、受験をされたわけですが、日本に帰ってきて戸惑ったことはありますか?

最初、みんながみんな日本人で、日本語を喋っていることに、すごく違和感を持ちました。ブラジルもマレーシアも多民族国家で、様々な言語が飛び交う環境だったので、なんだかしばらく不思議な感じがして(笑) それから、日本に帰ってきて一人暮らしを始めたので、お手伝いさんがいた7年間とのギャップに戸惑いましたね。それまでの習慣で、洗濯物を放っておけば、いつの間にかアイロンがかかって自然と戻ってくるものだと思っていたんです(笑) 一人暮らしを始めたら、自分以外に誰もいないので、全然部屋がきれいにならないので、初めのうちは苦労しました。

―日本に帰国して、感動したことはありますか?

日本に帰ってきて、ボサノバというブラジル音楽を知って感動しました。ブラジルにいたときは、若者が聞くヒップホップやトランスなどを主に聴いていて、ボサノバのことは全く知らなかったんです。日本でカフェにいったときに、たまたまライブがあってそこでボサノバを初めて聴いたんですけど(笑)、こんないい音楽がブラジルにあったんだって、すごく感動しました。ブラジルを出てから改めてブラジルの魅力に気づいた瞬間でしたね。

枠に捕らわれない、独自の思想を持つ

―その後、工藤さんは早稲田大学に進学されましたが、日本の大学にすぐ馴染めましたか?

初めは学校嫌でした。入学したての頃は、周りの学生が話す内容がだいたい芸能人や買い物の話で、くだらないなと思っていました。自分のことをみんなあまり話さないんですよね。私としては、みんながどういう風に生きてきたのか知りたいのに、表面的な話しかしないので、当時はあまり居心地はよくなかったですね~(苦笑)

―その気持ちはその後、変わりましたか?

2年生から国際教育学のゼミに入り、大学で打ち込める場所を見つけました。表面的ではなく付き合える友達が出来るようになり、ゼミがきっかけで、大学が好きになりました(笑)

―大学生活を振り返って一番力を入れたことは何ですか?

入学したときから、日本料亭のアルバイトをずっと続けています。日本文化に精通して、なおかつ英語を使う機会がある仕事を探していて、見つけたのが日本料亭のアルバイトでした。初日に接してくれた着物の女性の方の身のこなしや、お客様に対する心配りや言葉遣いを見て、「私もこうなりたい」と強く思いました。こうありたいという理想の姿が自分の中に明確にあったので、バイトは全然苦にならなかったです。

―自分が帰国子女だということを今でも意識しますか?

うーん。。。そうですね、日本に帰ってきた当時は、帰国子女って英語喋れていいよねって周りに言われることが多く、自分でも意識していました。今思えば、その頃は「帰国子女」という枠に自分を嵌め込んでいた気がします。今は、帰国子女というのは私の一つの要素であって、それが全てではないと思っています。枠に捕らわれず、私は私なんだという感覚を持って、自分と付き合えるようになってきたんだと思います。

ISKL :
http://www.iskl.edu.my/
帰国子女大学入試・合格体験記vol.20 :
http://www.rtnproject.com/2009/04/vol20_3.html

インタビューアから一言

工藤さんは、最初にお会いしたときから、とても話しやすい方で、終始笑顔で接してくれました。インタビュー中は、明確な目的意識や志を持って常に生きていることが伝わってきて、すごいなぁと、ひたすら感心していました。就活生ということもあって、質問に簡潔に答えてくれて、その答えも非常に整理されていたことが印象的でした。今回はお忙しい中、どうもありがとうございました!
interviewee_s_101_profile.jpg 吉住拓郎。1986年ニューヨーク生まれ。生まれたときから、アメリカと日本を頻繁に行き来し、日本の高校で1年過ごした後、ニューヨークで Horace Greeley High School を卒業。帰国後、横浜国立大学に進学。現在、経済学部国際経済学科3年に在籍。