海外生活体験者・社会人インタビューvol.48
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曽根泰斗さん。1986年東京生まれ。小学4年生にニューヨークに移り、中学3年生までニューヨーク日本人学校に在籍。日本に帰国後、中央大学杉並高等学校に入学し、中央大学法学部へ進学。09年にNECに入社。知的資産部所属。 |
ニューヨーク生活での生活
―ニューヨーク日本人学校とはどんな学校でしたか?
日本人学校はクラスの人数も少なく、先生のレベルも高くて、本当に素晴らしい学校でした。体育を受けるにしても、理科の授業でも、男女一緒になって、みんなで何でもやっていました。高校では、男女で出席番号から何から何まで分かれていたのですが、日本人学校には男女のフレンドリーさがありました。
また、日本の有名人もよく訪れました。毛利衛さんが小学6年生のときに来校して、そのとき講演を聞いたのですが、宇宙ってこうなんですよ、とすごく楽しそうに喋っていて、夢を追いかけているんだなぁ、という印象を強く受けたことを覚えています。
―ニューヨークに滞在している時に一番印象に残ったことは何ですか?
やはり9・11ですね。その日はちょうど理科移動教室の日で、ニューヨークのマンハッタンにある自然史博物館に行く予定でした。マンハッタンに向かう途中、煙が立ち上がるのをバスから見て、「何だ、これっ!?」って騒然とした感じになったのを、今でも鮮明に覚えています。
そのときは、結局マンハッタン島に入ることが出来ず、日本人学校に戻りました。担任の先生からテロの説明を受けたのですが、何でこんなことをやらなくてはならないんだ、宗教や思想の違いで何で人を殺さなくてはいけないんだという、憤りの気持ちでいっぱいでした。
驚いたのがその後のアメリカ人の団結の強さです。よく本などでは、アメリカ人は個人を重んじ、自分中心主義、その一方で、日本人は輪になってみんなで一緒にやろうという人種だと言われていますが、テロが起こったときには、アメリカ人はみんなで団結して、タリバンをやっつけようとしていました。それには大変驚き、彼らの愛国心の強さに心を打たれました。
男女関係の違和感
―その後、日本の高校に進学しましたが、何か違和感を持ちましたか?
男女がやたら分かれているということですね。今でも覚えているのが、入学式が終わって教室に入ったら、女子は女子で、男子は男子で固まって喋っているのです。何でいきなりこうなのかなぁと思いました。
今考えたら、それが当たり前だと思うのですが、当時は何で分かれているのか理解できませんでした。この風潮は結局3年間変わりませんでしたね。日本人は、男女が話しているとすぐ恋愛という風に捉えてしまうので、おもしろくないなぁって。まだ高校生なんだし、男女間での友情とかもあるじゃないですか。それが一番の違和感でした。
あと、電車も初めの頃乗れなかったですね(笑) アメリカではどこへ行くのも車だったので、電車に乗るという行為にかなり戸惑いを感じました。
法学部を目指す
―どんな高校生活を送りましたか?
高校では勉強しまくっていたイメージがありますね。部活もそれほど熱心にやっていませんでした。とりあえず法学部に行かないと話にならないという考えがあって、成績を良くするために、勉強に集中していました。
―法学部に行きたかった理由はなんですか?
親戚に弁護士や検事がいたので、それに対する憧れがきっかけです。最初は法学部に行けば弁護士になれるかなぁという甘い考えでした。あと、単純に偏差値高いところに行っておけば就職に有利とか、今考えると結構適当な理由でしたね(笑)
力を入れた英語学習
―大学生活で力を入れたことは何ですか?
大学で力を入れたことは大きく二つあって、一つ目は学校内でのこと、つまり勉強のことで、二つ目は学校外でのこと、つまりバイトですね。
勉強のことから話すと、やっぱり法学部に入ったからには、弁護士や検事を目指さなきゃって思い、司法試験の勉強をしていたのですが、実際挫折したんですよね。何で法律を勉強しているのかわからなくなってきて。法律で一生飯を食っていく覚悟があるかというと、そうでもなかったんです。
じゃあ何を勉強するべきなのか考えたときに、やっぱり英語を勉強しようかと思い始めました。せっかくニューヨークに行ってきたのだから、英語を完璧にしなくてはなぁと思って。ただ勉強するのではなく、映画を使って自分が楽しめるような勉強をしました。英語の勉強に集中する前はTOEICのスコアが710点だったのですが、最終的には910点を取り、結果を残すことができました。ただ、今考えるともう少し点を伸ばせたかなぁと思いますね。
楽しんでやろうというコンセプト
―具体的にはどのような英語学習をしたのですか?
基本的には洋画を見て学習です。一回目は日本語の字幕、二回目は英語の字幕、三回目は字幕なしで映画を観るのが最初のステップで、その次が英語で感想を書くというものでした。僕の場合は、映画を観た直後は、その感想を書きたくてしょうがない気持ちになっているんですね(笑) 辞書を使って単語を調べることも出来るので、楽しみながら英語も学べるという仕組みを作りました。洋書を読むことでの英語学習も考えましたが、あまり楽しめないと思ったので、楽しんでやろうというコンセプトで勉強を進めました。
クレームから学んだ対応力
―バイトについて教えてください。
ワイシャツを売る小売店でバイトをしていました。業務は接客です。服をお客さんに薦めることがメインでした。バイトで印象に残ったことはクレーム対応ですね。何でクレームをつけられたかというと、お客さんから見ると自分の対応の仕方が愛想悪く、相手をよくしてもらえなかったから、こんな店来たくないということだったんです。
そのときには、自分としては嫌な対応をした意識はなくて、多少疲れていたけれど、業務はこなしていたと感じていました。なぜお客さんが怒ったのか、理由がわからなかったのですよ。でもよく考えてみると、お客さんは旦那さんにシャツを買ってあげるということですごく楽しみに来ていたのですが、自分がちょっと嫌な顔をしただけで萎えちゃったんですね。
自分ではそのつもりがなくとも、それは自分の世界の話です。他人から見て嫌な対応であれば、それは嫌な対応だったのだと思いました。よく相手の立場に立ってと言われますが、本当に大事だなぁって。お客さんがどういう気持ちでシャツを買いに来ているのか、そういうことをもっと意識しなくてはいけないと感じました。それからは、接客のときには、シャツの話だけでなく、どういう方に差し上げるのかとか、話の幅を広げることを意識しました。
それまでは、知識を詰め込んでそれをアウトプットするだけという感じでしたが、お客さんに応じて対応の仕方を変えなければならないことを、この一件から学びました。この密着型の対応の仕方というのは、今の仕事にも役立っていると思います。
世の中が変わる節目に携わる
―就職活動はどのようなことを意識していましたか?
就職は一大イベントだと考えていて、自分の人生がそれだけで決まってしまうくらいのものだと感じていました。一度就職したら他の業界に移るのが難しいので、大事にやらなきゃなぁ、と思っていました。夢に近づける場所に行ければいいな、と感じていましたね。
―今の業界を選んだ理由を教えてください。
電機メーカーは海外で強いというイメージがあって、例えば、ニューヨークに住んでいたときも、日本の製品を現地でよく見かけたので、かっこいいなぁという憧れがきっかけです。また、これらの企業は海外で頑張っていたので、自分も海外に行けそうかなぁ、って思って(笑)
あと、メーカーが世の中を変えやすいのではないかと思ったのも大きいです。例えば、ipodの普及で生活スタイルも変わったし、世の中が変わる節目に自分が携われたらいいな、と思っていました。
―今の仕事を教えてください。
今は知的財産を扱っている部署の契約グループに所属しています。主な業務は特許とか著作権の保護をするために契約書を書いています。ここの部署には研究所があるので、例えば、研究者がリチウム電池を研究するときや他の企業と共同研究するときに、お互いに開示する秘密を守るという内容の契約書を書く役割を担っています。
やりたいことがやれるとは限らない
―社会人になって感じたことはありますか?
そうですね、まず、必ずしも自分がやりたいことがやれるとは限らないということを感じました。例えば僕の場合、英語を使う仕事をやりたいと思っていたのですが、現実には英文契約書を書く機会はあまりないし、自分の思うようにはならないんですよね。
そこを履き違える人が多いから、最近、会社を3年以内に辞める人も多くなっていると思うんですよ。働いているときに、自分がやりたいことと会社から求められていることのギャップを常に認識しないと、流されてしまったり、だらだら働いてしまったりするわけです。だから、大学生のみなさんは、この点に注意して就職活動を行って欲しいですね。
―今日はありがとうございました!
インタビューアから一言
曽根さんは僕がニューヨークに住んでいた頃の友人で、その当時から努力家で、何でも優秀というイメージでした。今まで曽根さんのバイトの詳しい話などを聞いたことがなかったので、対応力を学んだという話がすごく印象的でした。また、話の端々から、今でもニューヨークを愛しているんだなぁ、ということが、インタビューを通じて伝わってきました。社会人になってかなり大人の風格がでてきた曽根さん、これからの活躍を期待しています!
―ニューヨーク日本人学校とはどんな学校でしたか?
日本人学校はクラスの人数も少なく、先生のレベルも高くて、本当に素晴らしい学校でした。体育を受けるにしても、理科の授業でも、男女一緒になって、みんなで何でもやっていました。高校では、男女で出席番号から何から何まで分かれていたのですが、日本人学校には男女のフレンドリーさがありました。
また、日本の有名人もよく訪れました。毛利衛さんが小学6年生のときに来校して、そのとき講演を聞いたのですが、宇宙ってこうなんですよ、とすごく楽しそうに喋っていて、夢を追いかけているんだなぁ、という印象を強く受けたことを覚えています。
―ニューヨークに滞在している時に一番印象に残ったことは何ですか?
やはり9・11ですね。その日はちょうど理科移動教室の日で、ニューヨークのマンハッタンにある自然史博物館に行く予定でした。マンハッタンに向かう途中、煙が立ち上がるのをバスから見て、「何だ、これっ!?」って騒然とした感じになったのを、今でも鮮明に覚えています。
そのときは、結局マンハッタン島に入ることが出来ず、日本人学校に戻りました。担任の先生からテロの説明を受けたのですが、何でこんなことをやらなくてはならないんだ、宗教や思想の違いで何で人を殺さなくてはいけないんだという、憤りの気持ちでいっぱいでした。
驚いたのがその後のアメリカ人の団結の強さです。よく本などでは、アメリカ人は個人を重んじ、自分中心主義、その一方で、日本人は輪になってみんなで一緒にやろうという人種だと言われていますが、テロが起こったときには、アメリカ人はみんなで団結して、タリバンをやっつけようとしていました。それには大変驚き、彼らの愛国心の強さに心を打たれました。
男女関係の違和感
―その後、日本の高校に進学しましたが、何か違和感を持ちましたか?
男女がやたら分かれているということですね。今でも覚えているのが、入学式が終わって教室に入ったら、女子は女子で、男子は男子で固まって喋っているのです。何でいきなりこうなのかなぁと思いました。
今考えたら、それが当たり前だと思うのですが、当時は何で分かれているのか理解できませんでした。この風潮は結局3年間変わりませんでしたね。日本人は、男女が話しているとすぐ恋愛という風に捉えてしまうので、おもしろくないなぁって。まだ高校生なんだし、男女間での友情とかもあるじゃないですか。それが一番の違和感でした。
あと、電車も初めの頃乗れなかったですね(笑) アメリカではどこへ行くのも車だったので、電車に乗るという行為にかなり戸惑いを感じました。
法学部を目指す
―どんな高校生活を送りましたか?
高校では勉強しまくっていたイメージがありますね。部活もそれほど熱心にやっていませんでした。とりあえず法学部に行かないと話にならないという考えがあって、成績を良くするために、勉強に集中していました。
―法学部に行きたかった理由はなんですか?
親戚に弁護士や検事がいたので、それに対する憧れがきっかけです。最初は法学部に行けば弁護士になれるかなぁという甘い考えでした。あと、単純に偏差値高いところに行っておけば就職に有利とか、今考えると結構適当な理由でしたね(笑)
力を入れた英語学習
―大学生活で力を入れたことは何ですか?
大学で力を入れたことは大きく二つあって、一つ目は学校内でのこと、つまり勉強のことで、二つ目は学校外でのこと、つまりバイトですね。
勉強のことから話すと、やっぱり法学部に入ったからには、弁護士や検事を目指さなきゃって思い、司法試験の勉強をしていたのですが、実際挫折したんですよね。何で法律を勉強しているのかわからなくなってきて。法律で一生飯を食っていく覚悟があるかというと、そうでもなかったんです。
じゃあ何を勉強するべきなのか考えたときに、やっぱり英語を勉強しようかと思い始めました。せっかくニューヨークに行ってきたのだから、英語を完璧にしなくてはなぁと思って。ただ勉強するのではなく、映画を使って自分が楽しめるような勉強をしました。英語の勉強に集中する前はTOEICのスコアが710点だったのですが、最終的には910点を取り、結果を残すことができました。ただ、今考えるともう少し点を伸ばせたかなぁと思いますね。
楽しんでやろうというコンセプト
―具体的にはどのような英語学習をしたのですか?
基本的には洋画を見て学習です。一回目は日本語の字幕、二回目は英語の字幕、三回目は字幕なしで映画を観るのが最初のステップで、その次が英語で感想を書くというものでした。僕の場合は、映画を観た直後は、その感想を書きたくてしょうがない気持ちになっているんですね(笑) 辞書を使って単語を調べることも出来るので、楽しみながら英語も学べるという仕組みを作りました。洋書を読むことでの英語学習も考えましたが、あまり楽しめないと思ったので、楽しんでやろうというコンセプトで勉強を進めました。
クレームから学んだ対応力
―バイトについて教えてください。
ワイシャツを売る小売店でバイトをしていました。業務は接客です。服をお客さんに薦めることがメインでした。バイトで印象に残ったことはクレーム対応ですね。何でクレームをつけられたかというと、お客さんから見ると自分の対応の仕方が愛想悪く、相手をよくしてもらえなかったから、こんな店来たくないということだったんです。
そのときには、自分としては嫌な対応をした意識はなくて、多少疲れていたけれど、業務はこなしていたと感じていました。なぜお客さんが怒ったのか、理由がわからなかったのですよ。でもよく考えてみると、お客さんは旦那さんにシャツを買ってあげるということですごく楽しみに来ていたのですが、自分がちょっと嫌な顔をしただけで萎えちゃったんですね。
自分ではそのつもりがなくとも、それは自分の世界の話です。他人から見て嫌な対応であれば、それは嫌な対応だったのだと思いました。よく相手の立場に立ってと言われますが、本当に大事だなぁって。お客さんがどういう気持ちでシャツを買いに来ているのか、そういうことをもっと意識しなくてはいけないと感じました。それからは、接客のときには、シャツの話だけでなく、どういう方に差し上げるのかとか、話の幅を広げることを意識しました。
それまでは、知識を詰め込んでそれをアウトプットするだけという感じでしたが、お客さんに応じて対応の仕方を変えなければならないことを、この一件から学びました。この密着型の対応の仕方というのは、今の仕事にも役立っていると思います。
世の中が変わる節目に携わる
―就職活動はどのようなことを意識していましたか?
就職は一大イベントだと考えていて、自分の人生がそれだけで決まってしまうくらいのものだと感じていました。一度就職したら他の業界に移るのが難しいので、大事にやらなきゃなぁ、と思っていました。夢に近づける場所に行ければいいな、と感じていましたね。
―今の業界を選んだ理由を教えてください。
電機メーカーは海外で強いというイメージがあって、例えば、ニューヨークに住んでいたときも、日本の製品を現地でよく見かけたので、かっこいいなぁという憧れがきっかけです。また、これらの企業は海外で頑張っていたので、自分も海外に行けそうかなぁ、って思って(笑)
あと、メーカーが世の中を変えやすいのではないかと思ったのも大きいです。例えば、ipodの普及で生活スタイルも変わったし、世の中が変わる節目に自分が携われたらいいな、と思っていました。
―今の仕事を教えてください。
今は知的財産を扱っている部署の契約グループに所属しています。主な業務は特許とか著作権の保護をするために契約書を書いています。ここの部署には研究所があるので、例えば、研究者がリチウム電池を研究するときや他の企業と共同研究するときに、お互いに開示する秘密を守るという内容の契約書を書く役割を担っています。
やりたいことがやれるとは限らない
―社会人になって感じたことはありますか?
そうですね、まず、必ずしも自分がやりたいことがやれるとは限らないということを感じました。例えば僕の場合、英語を使う仕事をやりたいと思っていたのですが、現実には英文契約書を書く機会はあまりないし、自分の思うようにはならないんですよね。
そこを履き違える人が多いから、最近、会社を3年以内に辞める人も多くなっていると思うんですよ。働いているときに、自分がやりたいことと会社から求められていることのギャップを常に認識しないと、流されてしまったり、だらだら働いてしまったりするわけです。だから、大学生のみなさんは、この点に注意して就職活動を行って欲しいですね。
―今日はありがとうございました!
インタビューアから一言
曽根さんは僕がニューヨークに住んでいた頃の友人で、その当時から努力家で、何でも優秀というイメージでした。今まで曽根さんのバイトの詳しい話などを聞いたことがなかったので、対応力を学んだという話がすごく印象的でした。また、話の端々から、今でもニューヨークを愛しているんだなぁ、ということが、インタビューを通じて伝わってきました。社会人になってかなり大人の風格がでてきた曽根さん、これからの活躍を期待しています!
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吉住拓郎。1986年ニューヨーク生まれ。生まれたときから、アメリカと日本を頻繁に行き来し、日本の高校で1年過ごした後、ニューヨークで Horace Greeley High School を卒業。帰国後、横浜国立大学に進学。現在、経済学部国際経済学科3年に在籍。 |
