海外生活体験者・社会人インタビューvol.51

interviewee_s_137_profile.jpg 鈴木真理さん。私は1958年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業後、教員に。数年後、夫の仕事でニューヨーク、ロンドンに渡り、子育てをしながら翻訳会社に勤める。05年に帰国後、国際交流基金に2年半ほど勤め、08年から東京財団で働いている。

―最初に学生時代の話を聞かせてください。当時の東大はどのような感じでしたか?

私は東京大学文科Ⅲ類に入学し、国際関係論を専門としました。当時は女性の入学率は少なく、ほとんどの学生が男子でした。また、女性には男性と比べ就業の機会が少なく、差別は感じましたね。当時よく言われたのが「教職(教員免許)を取れ」でした。教職は比較的取得しやすく、とっておけば仕事を探す際、何かと便利だったからです。

―それで、鈴木さんは教職をお取りになったんですか?

はい。私は社会科と英語の教職を習得しました。社会科は、ほとんどの人が取得しており、競争が高いため、あまり就職活動において有利に働きませんでした。一方、英語の教職の取得は、社会科の教職ほど取得している人数が少なく、価値があったんです。私は英語の教職をとって、卒業後、私立の中・高一貫校で英語を教えました。

―教師!ですか!? 初めて知りました(笑) でも、その後は教師の道を進まれていませんよね?

結婚後非常勤で4年間英語を教えてから、夫の仕事でアメリカに2年行きました。まだ80年代後半の頃で、子供が生まれた直後のことです。2年後再び日本に帰国したのですが、能力ではなく勤務年数に価値を置く日本の慣習が根強かったため、教師を続けるのは困難でした。代わりに、自由にできることにチャレンジすることにしたんです。翻訳学校に行き、その後、友人の紹介でフリーランスの翻訳家になることができました。

―この頃からフリーランスという職業を選ぶのは、珍しいですね。特に、翻訳は時代の先を見通した選択ですね。

当時の翻訳は、今の翻訳の形態と全く違いました。昔はファックスで原稿をもらい、その後、ワープロで翻訳し、終わったらまたファックスで送信し直すという作業の繰り返しです。これを東京で数年してから、2年後に夫の仕事の都合で、今度はイギリスのロンドンに引っ越しました。

―90年代前半からグローバルに活躍されていますね。ロンドンでも翻訳業を行っていましたか?

はい。東京では3つの翻訳会社に勤めていましたが、そのうち1つが先端的で、時差を利用した翻訳ビジネスを始め、私が協力することになったんです。すぐに翻訳ができあがるよう、日本の夜の時間帯の間、つまり、イギリスの昼間に私が翻訳を行い、すぐに東京に送り返し、翌日の朝までには、顧客に完成品を渡せるサービスでした。

このような仕事以外に、イギリス企業の依頼も受けていました。当時のイギリス企業は、まだ日本に進出したがっていたので、私はイギリス企業の従業員マニュアルや企業パンフレットを訳しました。他にも、社長の手紙等、様々な英文も担当しました。当時有名だったRoverやUnited Distillersが一番印象的でしたね。

―イギリスでの経験のみならず、翻訳業のどこにやりがいを感じましたか?

どういう日本語に訳そうかと考えるのが楽しかったです。ただ単に英語に直すのではなく、日本の人に、どのようにすれば上手く意味を伝えられるかを工夫するところが面白いと感じました。

―翻訳って深いですね……。イギリスから帰国後の生活はどのような感じでしたか?

97年に日本にまた戻りました。90年代前半とは違い、パソコンの時代が到来し、翻訳はメールベースで行うようになりました。一時期仕事が増えましたが、97年の金融危機の影響で仕事が急に減りました。フリーランスだからこそ、景気の波の影響を一番受けましたね。

このままだとまずいと思い、人材派遣会社に登録し、NOVAで働く機会がありました。ただ、ここでの翻訳は適当で、翻訳チェックが甘く、質が高くない翻訳をしていた体制が私に合いませんでした。仕事はすぐ辞めましたが、案の定倒産しましたね(笑)

―この時期に日本に帰られたのは大変でしたね。

はい。 2000年に再びロンドンに行ったので、前から勤めていた日本の翻訳会社が、再びロンドンまで仕事を送ってくれるようになりました。ただ、昔と比べて仕事が減り、翻訳だけでは足りないと思い、そこでAdult Educationコースを受け、ジャーナリズムの基本を学んだ後、自分で文章を書くようになりました。きっかけは、友人がサイトを立ち上げたことです。そこで私がロンドンで考えたことを掲載しました。

翻訳、ライターの他に、子育ても行いました。子供にはイギリスの現地校とアメリカのインターナショナルスクールに通わせていたので、私の日本の教育の経験を合わせると、日英米の教育制度の比較ができ、興味深かったです。

―希実さんですね!

はい(笑) 希実が05年にロンドンの高校を卒業してから、また日本に帰りました。今度は翻訳ではなく、国際交流基金の広報部で働くことにしました。そこは、国内の人に海外で活動している人のことを伝えることを目的としているんです。私が帰国後に住んだ場所の近くに、新しく広報部が立ち上がり、人を募集していたので応募したところ、採用してもらいました。海外滞在経験があり、記事を書けて、また、芝居が好きだった私は、組織が求めていた資質にぴったりでした。海外で活躍している人にインタビューをしたりしていました。

―そこでの仕事のやりがいは?

感動を分かち合うことでしたね。国内に住んでいる人に、海外の様子を理解してもらえるのに役に立てたと思います。「海外がいい」と伝えるのではなく、「海外にはこういうのがあって、ここが良いところです」といった、歴史、文化の違いを伝えることができたと思います。

―翻訳業と国際交流基金では、どちらのほうが働いていてより楽しいと思いましたか?

両方別の良さがあります。翻訳は、小さい組織であるため、自分なりに工夫ができて、そこが楽しかったです。一方、国際交流基金は大きな組織で、インタビューやイベントなどで様々な人と会う機会があり、これも別の楽しさがありました。

―東京財団で働くきっかけを教えていただけませんか?

東京財団では08年の2月から働くことになりました。国際交流基金の契約は最大3年間だったので、契約満期に近づき、新しい職を見つけないといけなかったんです。ここは、たまたま友人の紹介で入りました。その頃会長が替わり、財団に広報部を設立し、友人から声がかかりました。

東京財団は、日本の政策研究及び人材育成を目的とした、普通の財団法人とは異なる組織です。私が今までやってきた仕事とは結構違う部分が多く、新しいフィールドに飛び込んだ感じです。

―現在の仕事はどのようなことを担当されていますか?

私は再び広報部に入りましたが、国際交流基金とはまた違う職務内容です。英語のサイトを立ち上げていて、日本の情報を発信するのを目的としています。翻訳をしていた時代のスキルが役に立ちますね。

私は今まで英文を発注される側だったのですが、今度は発注する側になりました。そのため、発注される側(翻訳会社)によって翻訳の料金及び質が違うのが経験上よくわかります。文章によって翻訳会社を使い分けていますね。

―なるほど、それは面白いですね。

例えば、社会科学の論文であれば、内容をきちんと理解して専門用語を正しく使える翻訳会社に頼んでいます。私が担当する以前は、ジャーナリスティックな表現に重点をおく翻訳会社に外注していましたが、こうした会社は必ずしもポリティカル・コレクトネスを考慮していないため、海外の読者に誤解を与えるおそれがあるので、すぐに変えました。

―東京財団で大変と感じたことは?

大変なのは、業務内容に関するバックグラウンドが少ないため、周りより業務に関する知識を多く取得しなければならないことです。ただ、財団の研究の思想の背景として、文化や歴史を配慮しているという点では、国際交流基金でやっていた仕事の理念に近い部分があるので、研究内容などは普通のところよりは理解しやすいと思います。

―今後はどのようなことをしようと考えていますか?

まず、今やっている仕事をもっとしっかりしたいと思います。また、海外のシンクタンクとの連携や、来年予定されているワシントンDCのイベント等、やることが多いです。ただ、国際社会に関わっていきたいということは、今までと変わりません。

―それでは最後に一言お願いします。

皆さんはそれぞれ違う経験をしてきたと思います。その経験を通じて得た強みを探し、使ってください。人間は完璧ではありません。バイリンガルは2ヵ国語話せても、完璧ではないです。ただ、2ヵ国語を話せるという強みを活かして、ハンディキャップを乗り越えてください。逆に、純粋に日本に住んでいた人は、その特性を活かして頑張ってください。

―今日はありがとうございました。

海外生活体験者・学生インタビューvol.61 鈴木希実さん
http://www.rtnproject.com/2009/09/vol61.html

インタビューアから一言

「グローバル化」という言葉が日本社会に浸透する以前から、国際社会で活躍をされていた鈴木真理さん。チャンスを活かして確実にステップアップしていることが、インタビューを通してよく分かりました。彼女のようなキャリアを積む人が確実に多くなってはいますが、それも彼女のようなグローバルシチズンの先駆者がいたからだと思います。貴重な話を聞かせていただきありがとうございました。
interviewer_s_26_profile.jpg 井戸翔太。1988年岐阜県生まれ。出生後東京に引っ越す。6歳の時に渡米し、カリフォルニア州サンディエゴに12年間滞在。Rancho Bernardo High School 卒業後、帰国し、東京大学文科Ⅱ類に入学。昨年は英語ディベート部の部長を務め、今年は日本パーラメンタリーディベート連盟国際渉外担当を務める。現在、 経済学部3年に在籍。