海外生活体験者・社会人インタビューvol.55〜前編〜
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須藤展啓さん。1981年生まれ。北海道小樽市出身。04年、北星学園大学文学部英文学科を卒業後、民間の語学学校IAYインターナショナルアカデミーに入学。その後、06年に青年海外協力隊に合格し、2ヵ月間の訓練を経た後、07年1月より2年間キルギス共和国にて日本語教師として活動。帰国後は、札幌市内の専門学校にて日本語教師として勤務しつつ、日露青年交流センターの日本語教師としての試験を受験。合格後、09年9月より、モスクワ市立教育大学にて日本語教師として活動中。 |
今回インタビューを受けていただいたのは、モスクワ市立教育大学で日本語の教鞭をとられている須藤展啓さん。彼の二ヵ国にわたる日本語教師としての活動と、その中で感じた「人と人との交流」に対する熱き思いを語っていただきました。
日本って、どんな国だったっけ?
―須藤さんが日本語教師になられたきっかけは何でしょうか?
外国の人に日本のことを聞かれ、答えられなかったことが、一番のきっかけですね。
大学は英文科だったので、外国から来ている方とお話する機会が多かったのですが、そのときに日本について質問されて、答えられなかったことが何度かあったんです。自分の国のことなのに、実は結構わかっていないことが多い……。このことから、日本について知ること、そして日本について知ってもらうことに興味が湧いてきました。そこで、日本語教師になろうと決めたんです。
―日本について知ってもらう様々な方法の中で、なぜ日本語教師を選ばれたのですか?
もともと国語が好きだったんですよ。小さい頃から本を読むのが好きで、寝る前に親が絵本を読んでくれるのは本当に好きでしたし、自分で音読するのも好きでした。中学・高校のときも国語の成績はなぜだかとても良かったんですよ。学年1位を取ったことだってあるんですから(笑)
―おぉっ!! スゴイですね。
いえいえ(笑) 初めは国語が得意で、次に日本を伝えることに興味をもって……、こうして少しずつ緩やかな分岐点を経ていった結果、日本語教師になろうと思いました。大学卒業後、民間の語学学校IAYインターナショナルアカデミーに入学し、そこで日本語教師になるための経験を積みました。その後、日本語教育能力検定試験に合格し、青年海外協力隊にも合格しました。
トンガからキルギスへ
―最初はキルギスで日本語教師になられたと伺っておりますが、なぜキルギスを?
実は、最初は全然違う国を希望していたんですよ(笑)
青年海外協力隊に応募するときには、活動地域の希望を出せるのですが、私はトンガ王国を希望しました。そのときは、初等・中等教育で日本語教育を行っているところに勤務したかったんです。その条件を満たすところだったのがトンガ王国でした。
でも、合格通知には、キルギス共和国と書いてありました。しかも、勤務先は大学。まさかの高等教育機関でした(笑)
―予期せぬ勤務地であったキルギスでしたが、不安はありましたか?
初めはものすごく心配でした(笑)
25歳にして初めて行く外国だったんですよ。訓練所で語学研修を受けたとは言え、キルギス語もロシア語もほとんど分からない状態なので、ものすごく緊張していました。空港に着いたのも1月だったので、町を見たときには、「寂しいところに来てしまったなぁ」とすごく心配になりました。
―1月のモスクワのような、あの灰色の空気漂う雰囲気ですか?
まさにその通りです(爆)
その後、現地で1ヵ月のロシア語研修を積み、大学に配属されました。大学には日本人は誰もおらず、現地の人は英語もなかなか通じないので、それも心配でした。
―モスクワよりも英語が通じないんですか?
モスクワよりも通じないでしょうね……。「ドゥーユーハヴァギョール?」って、意味わかります?
―ギョール……ですか?
ロシア語訛りの英語ですよ。Girlがгёл(ギョール)になる。
―あぁ!
日本人の英語も、彼らからすると分かりにくいかもしれませんから、お互い様なんですが……。
そんなこんなで、初めはとても心配していましたが、現地のキルギス人日本語教師がとても日本語が上手で会話ができたので、「これならやっていける!」と、そのとき初めて思えました。
そして、学生のみなさんからも元気をもらえました。学生は皆、ちゃんと勉強するし、しかも明るく接してくれまして。助けられたこともたくさんあります。例えば、キルギス語を教えてもらったり、私の部屋探しを手伝ってくれたり、休みの日に暇をしていると声をかけてくれたり。学生の出身地へ遊びに行って、家族にまでお世話になったり。学生との交流で、どんどん知り合いが増えて行ったことが、とても楽しかったです。
映画監督!? としての日本語教師
―キルギスで日本語教師をされていて、辛かったこと、苦労されたことをお話いただけますか?
日本語教師として試行錯誤しました。
そこでの仕事が、私にとっての日本語教師デビューだったので、いろいろ試行錯誤しました。初めのうちは、教壇に立って100分近く話を持たせるだけでも大変でしたし、授業の準備なども「ここで学生に○○と質問が来たら、○○と返す」とか、いろいろシミュレーションしていました。
―まるで映画監督のようですね。
そうですね(笑) 授業という映画の台詞、演出を考えて、実際に現場で行うわけですからね。学生を惹きつけられる授業で、かつ学生の身になる授業をやるためにはどうすべきか……。一日に1コマだけではないこともあったので、前日はまともに寝られなかったこともあります。
―授業を受ける身として、今後も精進したいと思います……。
「持ちつ持たれつ」が教えてくれたもの
―キルギスでお仕事をされて、どのようなことが印象に残っていますか?
「人に助けを求める」ということの大切さを知りました。
私はもともと、自分の悩みを人に相談したり、人に「困っているから助けて」と言ったり、そういうことが苦手でした。でも、キルギスで生活していくうちに、そうしたことへのためらいもなくなってきました。「人に頼らない」なんて、悠長なことは言ってられなかったので(笑)
そうして人に頼り頼られと生活しているうちに、こんなことに気づいたんです。「助けを求めない」というのは、ラクしているのではないかなぁと。
―と、言いますと?
人に助けを求めたり、何かをお願いしたりするときって、言ってしまえばちょっと面倒くさいじゃないですか。事情を説明して、なぜあなたにお願いするのかも言って、言い方を考えたり、それを外国語でするときもあったり、相手にかかる迷惑を考えたりすると……。精神的に負担に感じることが多いじゃないですか。
一人でやっている方が、人に迷惑をかけないから精神的にはラクなんですが、でもそうは言っていられない状況というのは、多かれ少なかれ必ずあります。何事も人との関わりなしでは望ましい結果は期待できない。だから、人に助けを求めるという行為は、とても重要なんだなぁ、と。
―私も同感です。モスクワでそれを強く感じました。
そうですね。モスクワはかなり便利な都会ではありますが、まだまだ人との交流なしで生活できるほど合理化されているわけではありませんしね。
私は人に頼り頼られと生活しているうちに、人との交流が今まで以上に楽しくなってきました。例えば小さなことですが、初めはスーパーで無言で買い物していたのですが、最近では市場でおばちゃんとやりとりしながら野菜を買ったりするようになりましたし。
―私も全くその通りです!(笑)
「行けるときに行くべき」
―キルギスから帰国されて、モスクワへ来られるまでは、どのように過ごされていたのですか?
実は、帰国してすぐ、またキルギスを訪れたんです(笑) 帰国後、どうしてもまたキルギスに行きたくて、自費で1月ほど旅行に行ってきました。
―キルギスをとても気に入られたんですね。
えぇ(笑)
旅行後は、専門学校で日本語教師のお話を頂いて、そこで1年契約ということで働かせてもらいました。でも、実は帰国間もない頃に、日露青年交流センターの日本語教師の試験を受けていたんです。これは「キルギスで自分が積んだ経験がどれほどのものか」を測る、いわゆる実力試しとして受けたんです。だから実は、当初はロシアに行くことはあまり考えてなかったんですよ。どうせ落ちるだろうと思っていましたし(笑)
5月頃に日露青年交流センターから合格通知が届き、派遣予定地がモスクワであると聞くと、そこでの生活や日本語教育について考えるようになりました。そうしているうちに、モスクワで日本語教師として働くことに、徐々に興味が湧いてきました。
でも、このとき私はある悩みを抱えていました。専門学校での仕事は、知人から紹介を受けており、また一年契約で勤務させて頂いていたので、モスクワへ行けば双方にご迷惑をかけることになってしまいます。
そこで「モスクワを諦める」と決め、専門学校でお世話になっていた先生のところへ相談しに伺ったところ、その先生からは「それは行った方がいい」とのお言葉を頂きました。今思えば、相談しに行っている時点で、本当は行きたかったのかもしれません。だって、本当に諦めるのであれば、相談する前に黙って合格通知を破ってしまえばいいのですから。
周囲の人は概ねモスクワ行きに賛成してくれていました。両親も、初めは「日本に残って欲しかった」と難色を示しましたが、その後「若いうちに、行けるうちに行った方がいい」と、賛成してくれるようになりました。後編はこちら>>
日本って、どんな国だったっけ?
―須藤さんが日本語教師になられたきっかけは何でしょうか?
外国の人に日本のことを聞かれ、答えられなかったことが、一番のきっかけですね。
大学は英文科だったので、外国から来ている方とお話する機会が多かったのですが、そのときに日本について質問されて、答えられなかったことが何度かあったんです。自分の国のことなのに、実は結構わかっていないことが多い……。このことから、日本について知ること、そして日本について知ってもらうことに興味が湧いてきました。そこで、日本語教師になろうと決めたんです。
―日本について知ってもらう様々な方法の中で、なぜ日本語教師を選ばれたのですか?
もともと国語が好きだったんですよ。小さい頃から本を読むのが好きで、寝る前に親が絵本を読んでくれるのは本当に好きでしたし、自分で音読するのも好きでした。中学・高校のときも国語の成績はなぜだかとても良かったんですよ。学年1位を取ったことだってあるんですから(笑)
―おぉっ!! スゴイですね。
いえいえ(笑) 初めは国語が得意で、次に日本を伝えることに興味をもって……、こうして少しずつ緩やかな分岐点を経ていった結果、日本語教師になろうと思いました。大学卒業後、民間の語学学校IAYインターナショナルアカデミーに入学し、そこで日本語教師になるための経験を積みました。その後、日本語教育能力検定試験に合格し、青年海外協力隊にも合格しました。
トンガからキルギスへ
―最初はキルギスで日本語教師になられたと伺っておりますが、なぜキルギスを?
実は、最初は全然違う国を希望していたんですよ(笑)
青年海外協力隊に応募するときには、活動地域の希望を出せるのですが、私はトンガ王国を希望しました。そのときは、初等・中等教育で日本語教育を行っているところに勤務したかったんです。その条件を満たすところだったのがトンガ王国でした。
でも、合格通知には、キルギス共和国と書いてありました。しかも、勤務先は大学。まさかの高等教育機関でした(笑)
―予期せぬ勤務地であったキルギスでしたが、不安はありましたか?
初めはものすごく心配でした(笑)
25歳にして初めて行く外国だったんですよ。訓練所で語学研修を受けたとは言え、キルギス語もロシア語もほとんど分からない状態なので、ものすごく緊張していました。空港に着いたのも1月だったので、町を見たときには、「寂しいところに来てしまったなぁ」とすごく心配になりました。
―1月のモスクワのような、あの灰色の空気漂う雰囲気ですか?
まさにその通りです(爆)
その後、現地で1ヵ月のロシア語研修を積み、大学に配属されました。大学には日本人は誰もおらず、現地の人は英語もなかなか通じないので、それも心配でした。
―モスクワよりも英語が通じないんですか?
モスクワよりも通じないでしょうね……。「ドゥーユーハヴァギョール?」って、意味わかります?
―ギョール……ですか?
ロシア語訛りの英語ですよ。Girlがгёл(ギョール)になる。
―あぁ!
日本人の英語も、彼らからすると分かりにくいかもしれませんから、お互い様なんですが……。
そんなこんなで、初めはとても心配していましたが、現地のキルギス人日本語教師がとても日本語が上手で会話ができたので、「これならやっていける!」と、そのとき初めて思えました。
そして、学生のみなさんからも元気をもらえました。学生は皆、ちゃんと勉強するし、しかも明るく接してくれまして。助けられたこともたくさんあります。例えば、キルギス語を教えてもらったり、私の部屋探しを手伝ってくれたり、休みの日に暇をしていると声をかけてくれたり。学生の出身地へ遊びに行って、家族にまでお世話になったり。学生との交流で、どんどん知り合いが増えて行ったことが、とても楽しかったです。
映画監督!? としての日本語教師
―キルギスで日本語教師をされていて、辛かったこと、苦労されたことをお話いただけますか?
日本語教師として試行錯誤しました。
そこでの仕事が、私にとっての日本語教師デビューだったので、いろいろ試行錯誤しました。初めのうちは、教壇に立って100分近く話を持たせるだけでも大変でしたし、授業の準備なども「ここで学生に○○と質問が来たら、○○と返す」とか、いろいろシミュレーションしていました。
―まるで映画監督のようですね。
そうですね(笑) 授業という映画の台詞、演出を考えて、実際に現場で行うわけですからね。学生を惹きつけられる授業で、かつ学生の身になる授業をやるためにはどうすべきか……。一日に1コマだけではないこともあったので、前日はまともに寝られなかったこともあります。
―授業を受ける身として、今後も精進したいと思います……。
「持ちつ持たれつ」が教えてくれたもの
―キルギスでお仕事をされて、どのようなことが印象に残っていますか?
「人に助けを求める」ということの大切さを知りました。
私はもともと、自分の悩みを人に相談したり、人に「困っているから助けて」と言ったり、そういうことが苦手でした。でも、キルギスで生活していくうちに、そうしたことへのためらいもなくなってきました。「人に頼らない」なんて、悠長なことは言ってられなかったので(笑)
そうして人に頼り頼られと生活しているうちに、こんなことに気づいたんです。「助けを求めない」というのは、ラクしているのではないかなぁと。
―と、言いますと?
人に助けを求めたり、何かをお願いしたりするときって、言ってしまえばちょっと面倒くさいじゃないですか。事情を説明して、なぜあなたにお願いするのかも言って、言い方を考えたり、それを外国語でするときもあったり、相手にかかる迷惑を考えたりすると……。精神的に負担に感じることが多いじゃないですか。
一人でやっている方が、人に迷惑をかけないから精神的にはラクなんですが、でもそうは言っていられない状況というのは、多かれ少なかれ必ずあります。何事も人との関わりなしでは望ましい結果は期待できない。だから、人に助けを求めるという行為は、とても重要なんだなぁ、と。
―私も同感です。モスクワでそれを強く感じました。
そうですね。モスクワはかなり便利な都会ではありますが、まだまだ人との交流なしで生活できるほど合理化されているわけではありませんしね。
私は人に頼り頼られと生活しているうちに、人との交流が今まで以上に楽しくなってきました。例えば小さなことですが、初めはスーパーで無言で買い物していたのですが、最近では市場でおばちゃんとやりとりしながら野菜を買ったりするようになりましたし。
―私も全くその通りです!(笑)
「行けるときに行くべき」
―キルギスから帰国されて、モスクワへ来られるまでは、どのように過ごされていたのですか?
実は、帰国してすぐ、またキルギスを訪れたんです(笑) 帰国後、どうしてもまたキルギスに行きたくて、自費で1月ほど旅行に行ってきました。
―キルギスをとても気に入られたんですね。
えぇ(笑)
旅行後は、専門学校で日本語教師のお話を頂いて、そこで1年契約ということで働かせてもらいました。でも、実は帰国間もない頃に、日露青年交流センターの日本語教師の試験を受けていたんです。これは「キルギスで自分が積んだ経験がどれほどのものか」を測る、いわゆる実力試しとして受けたんです。だから実は、当初はロシアに行くことはあまり考えてなかったんですよ。どうせ落ちるだろうと思っていましたし(笑)
5月頃に日露青年交流センターから合格通知が届き、派遣予定地がモスクワであると聞くと、そこでの生活や日本語教育について考えるようになりました。そうしているうちに、モスクワで日本語教師として働くことに、徐々に興味が湧いてきました。
でも、このとき私はある悩みを抱えていました。専門学校での仕事は、知人から紹介を受けており、また一年契約で勤務させて頂いていたので、モスクワへ行けば双方にご迷惑をかけることになってしまいます。
そこで「モスクワを諦める」と決め、専門学校でお世話になっていた先生のところへ相談しに伺ったところ、その先生からは「それは行った方がいい」とのお言葉を頂きました。今思えば、相談しに行っている時点で、本当は行きたかったのかもしれません。だって、本当に諦めるのであれば、相談する前に黙って合格通知を破ってしまえばいいのですから。
周囲の人は概ねモスクワ行きに賛成してくれていました。両親も、初めは「日本に残って欲しかった」と難色を示しましたが、その後「若いうちに、行けるうちに行った方がいい」と、賛成してくれるようになりました。後編はこちら>>
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木村荘一郎さん。1987年生まれ。高校三年間を米国オハイオ州で過ごし、帰国後は北海道大学経済学部に入学。現在3年に在籍。1・2年は課外活動、2・3年は学業に精力的に取り組み、現在はモスクワ大学外国語学部に留学中。ロシア語の研修をしながら、現地で様々な出来事と格闘中。 |
