海外生活体験者・社会人インタビューvol.58〜前編〜

interviewee_s_148_profile.jpg 原田大輔さん。1973年生まれ。97年、東京外国語大学インド・パーキスターン語学科修了(94~95年、インド・ウッタルプラデーシュ州アラーハーバード大学留学)後、旧石油公団に入団。海外研修生の受入れ事業や東南アジア・豪州LNGプロジェクト担当部に在籍。03年、経済産業省資源エネルギー庁へ出向し、長官官房国際課にて中国、インド、ASEAN諸国会合を担当。06年10月より、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)モスクワ事務所副所長としてロシアに赴任。

今回インタビューを受けていただいたのは、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)モスクワ事務所副所長の原田大輔さん。エネルギー安全保障の重要性と日本人として生きることに対する彼の熱き思いを語っていただきました。

熱き天竺に向かって ~眠れる巨象インドとの出会い~

―大学は、なぜインド・パーキスターン語を選ばれたんですか。

私が大学に入学した90年代初頭は、インドは世界で最も「熱かった」地域の一つでした。

当時インドでは、カリスマ的な政治手腕を振るったラジーヴ・ガンディー首相が91年に暗殺され、信用不安から外資がインドから撤退、外貨準備高が著しく目減りする等通貨危機が発生し、経済自由化へ政策を転換した時期だったんです。

高校生の自分には、インドと言っても、人口も国土も大きい国、暑い気候、仏教発祥の地くらいしか知らず、当時の経済自由化の背景までは知りませんでしたが、インドがとにかく熱い国であることは、ニュースやドキュメンタリー、経済誌で取り上げられていて、伺い知ることができました。「眠れる巨象が目を覚ます」といったキャッチフレーズをよく見掛けた時代です。大学で何か役に立つもの・身につくものを学びたいと思い、当初から外国語学部に強い関心があったのですが、「英語はまあ、どうにかなるだろう」「今後、活きてくる言葉といったら何だろう」と大学受験期に考え、インド・パーキスターン語を受験することにしたんです。

92年に大学入学後、まだ不勉強だったインドの歴史、文化、宗教を学びながら、主眼の連邦公用語であるヒンディー語の基礎を学び、大学3年になった94年にインドへ国費留学しました。

―えっ!! 国費留学ですかっ!!

いやいや(笑) 私の留学した時代には、まだインドへ留学する人も限られていて、ちょうど当時の文部省が設立した留学制度も始まって、幸運だったんだと思います。アラーハーバード大学は、純粋なヒンディー語が話されている地域にあり、首都デリーからも夜行で一日かけて行く場所でしたから、行きたいという人も少なかったのかもしれません(笑)。

入学したときから、必ず留学しなければならないという思い入れがありました。「言葉は実際に現地に行かなければと身につかない」という思いがあったからですが、インドに行ったのはいいものの、初めのうちは本当に大変でした(苦笑) 実は初めての海外&一人暮らしだったので、何もかもが新鮮である一方で、インドという、日本よりも気候や環境面で過酷な生活に慣れるまで時間がかかりました。

アラーハーバード周辺は、酷暑期の4月から5月には50℃を超える地域で、冬はひと桁くらいまで気温も下がります。お腹をこわすのは日常茶飯事で、毎月1回原因不明の熱を出したりしていました。また、自転車で転んで肩鎖関節を脱臼したり、帰国したら赤痢で隔離されたり、更にはお腹から寄生虫を出産?したりと、なかなか体験できないことをさせていただきました(笑) 健康管理との戦いでしたが、もちろん語学習得にも力を注ぎ、やはり日本での勉強では得られない知識と充実した時間を過ごすことができました。

可採埋蔵量に見た未来

―就職活動期には、なぜ「石油」を選ばれたのですか。

簡単に言えば、石油という分野に魅力、将来性、働き甲斐を感じたからだと思います。

大学ではインドについて5年間学んだわけですが、就職となるとこれから30年はその分野に身を置く可能性があり、大学で費やす時間の比ではありません。もちろん様々な分野を渡り歩くという選択肢もないわけではありませんが、ひとつの分野を究め切磋琢磨することは、最終的に自分の強い武器になり得ます。こんな視点で考えたとき、石油産業には自分を引きつける魅力と将来性があり、私が最終的に選んだ現在の職場(旧石油公団、現JOGMEC)に働き甲斐を感じたのです。

漠然と石油という分野に興味を持ち始めたのは、インドに留学していた時期でした。インドで様々な方と出会ったのですが、そのとき中東やアフリカの産油国から留学している方とも交流する機会に恵まれました。第三世界という言葉は先進国からの見方かもしれませんが、インドはいわゆる第三世界のリーダーとして中東やアフリカと親密な関係を構築しようとしており、学生査証の優遇等を通して多くの留学生を受け入れていたのです。また、日本からは直に触れることのなかったイスラーム文化圏という繋がりという側面もこれら地域に共通しており、石油と密接なつながりを持つ世界を真近に感じたことで、強い関心を持つようになりました。

帰国後、就職活動を迎えたとき、まず考えたのは「生涯インド関係で働くのかどうか」ということでした。実は、私が在学中の頃は、つまるところインドはまだ眠りから目を覚ましていなかったんです(笑) 確かに既に多くの日本企業も進出していましたが、インド独自の風土・宗教・文化を地肌で感じると、例えば中国の急速な経済成長モデルとは異なった、非常に緩やかな経済発展を遂げていくのではと感じました。実際、BRICsの一角として脚光を浴びるのは、それから10年以上経った最近のことです。

また、インドで習得した言語や知識は強みでもありますが、社会に出れば、自分の経歴に必ず付いて回り、自分をインドだけに制約することにも繋がる可能性にも気付かされました。もしかすると留学時の生活の厳しさをもう体験したくないという気持ちもあったのかもしれませんが(笑)、インドだけでなく、違った世界も見てみたいという思いも強くなり、「別にインドにこだわる必要はないかな」と思い始めるようになりました。そして、就職活動を通じて様々な分野を研究していたときに、留学時代の友人の影響もあって「石油が面白いかもしれない」と思うようになったんです。

―具体的には、どのような点に興味を持たれたのでしょうか。

石油と一口に言っても、実は様々な分野に細分化されます。まず、石油を発見する過程である探鉱・開発、つぎに、産油国から消費国へ輸送する分野、そして、各消費者への販売といった具合に産業が展開されています。それぞれの分野を研究していくうちに、私の興味を喚起したのが「可採埋蔵量」という言葉でした。

「あと40年程度で石油は枯渇する」と私が小学生の頃から言われていました。そんな社会科の授業を覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。この40年程度という数字は、全世界の石油の可採埋蔵量をその年の生産量で割り戻したもので、可採年数とも呼ばれます。しかし、その数値は、実はここしばらくほとんど変わっていないんです。というのも、世界が毎年消費する量と同じかそれ以上の量の石油が、石油開発に携わる国や企業の絶え間ない努力によって発見され、加算されているからなのです。ただし、20世紀後半までの中東のような簡単に見つかる大規模な油田は既に少なくなっており、今後更に厳しい環境条件で大変な資金をかけて見付けなくてはならない状況にあります。

就職活動中の私は、この事実に心踊らされました。産業の血液とも喩えられ、現在の生活に不可欠な石油が今後さらに厳しい条件で可採埋蔵量を確保しなければならない状況あること。ともすれば、私が50歳くらいになって、自らが主体となって事業を動かせるようになる頃には、石油の安定供給に尽力するこの仕事の意義は更に高まり、注目を集めているかもしれない。今思えば非常に単純な発想でしたが、石油の探鉱開発や備蓄事業を推進する旧石油公団(現在のJOGMEC)の門を叩き、97年に入団しました。

―入団後は、どのようなお仕事をされたのですか。

印象に残っているのは、海外研修生の受入れ事業ですね。産油国から日本へ国営石油会社の方々を招き、日本との交流を深める事業です。産油国の方々に日本の技術を学んでいただくと同時に、日本に対する理解を深めていただいて、長期的かつ友好的な将来の関係を築くことが目的です。私が在籍した2年間で約150人の東南アジア、中東や南米、中央アジアの国々の方々と知り合うことができ、現在も友人として、時にはビジネスパートナーとして、情報交換をする大きな資産となっています。

また、石油開発プロジェクトを担当する部に在籍していたときは、実際のプロジェクトに携わることができ勉強になりました。どこの国でどのような石油契約・税制条件の下で探鉱を行うのか、初期投資を回収しその後も利益を出せるほどの地質ポテンシャルが見込めるのか、生産された原油を日本のエネルギー安全保障に資するべく本邦へ持ち込むことができるのか等、様々な角度からプロジェクトを見る目を養うことを学びました。

特にインドネシアの資産買収プロジェクトへ参加した際にはディールが終了するまで3ヵ月間、法務・会計等様々な外国人専門家とタッグを組んで、日本・インドネシアを行き来したのも素晴らしい経験でした。不眠不休の中で、チームが一丸となってゴールを目指す充足感を味わった貴重な時間として、今も深く記憶に残っています。

経済産業省資源エネルギー庁への出向も、これまでの短いキャリアの中で非常に印象深いものです。日本のエネルギー政策の根幹に携わるという貴重な立場・時間の中で、エネルギー専門官として日本に与える影響を精査しながら、中国との二国間協議や日中韓、更にインドも含めたマルチラテラルな会合、ASEANとの国際会議のセットアップ・アジェンダの作成を行うという機会を与えられました。昼夜問わず働き、海外での会議に奔走する部署でしたが、通常の出向期間の延長を希望するほど、自己鍛錬の場として理想的な職場だったと思います。

いろいろ携わってきた中で、総じてインド文化圏である南・東南アジア諸国に携わることが多かったように思います。これは外国語学部を選んだ人の宿命だと思うのですが、結局専攻語という経歴が一生ついて回るんですね(笑) 自分がインドに制約される可能性は回避できたと思うのですが、それでもインドが仕事上でもプライベートでも近づいてくる。もしかしたら、自らが引き寄せているような、ふと気付くと傍にインドがあるような不思議な感覚にとらわれることがよくありますね。後編はこちら>>
木村荘一郎。1987年生まれ。高校3年間を米国オハイオ州で過ごし、帰国後は北海道大学経済学部に入学。現在3年に在籍。1・2年は課外活動、2・3年は学業に精力的に取り組み、現在はモスクワ大学外国語学部に留学中。ロシア語の研修をしながら、現地で様々な出来事と格闘している。