海外生活体験者・社会人インタビューvol.70

interviewee_s_181_profile.jpg 大塚清一郎さん。エッセイスト。前駐スウェーデン大使。1942年、東京まれ。高校時代にAFS(アメリカン・フィールド・サービス)留学生として米国ミネソタ州の高校で勉学。その後、外交官を志し、66年一橋大学卒業後、外務省入省。文化交流部長、初代エディンバラ総領事、駐スリランカ大使、駐スウェーデン大使などを歴任後、08年退官。現在、ワールド・フライフィッシング・オブ・ジャパン名誉会長。趣味はフライフィッシング、バグパイプ、フォーク・ギター、空手。著書に『キルトをはいた外交官』(ランダムハウス講談社)。

―本日はお時間を頂き、ありがとうございます。唐突ではありますが、早速インタビューに入りたいと思います。よろしくお願いいたします。
 
こちらこそよろしくお願いします。
 
世界7ヵ国で仕事をする
 
―まず初めに軽い自己紹介を3分ほどでお願いします。
 
3分とは難しいですね。名前は大塚清一郎で、年齢は68歳です。イギリスには世界的に有名なケンブリッジ大学があります。日本にはワンブリッジ大学があります。私はその一橋大学を卒業しました(笑) そして仕事は、大学を卒業して外務省に入りまして、外交官の仕事を40年間ばかりやらせてもらいました。全部で7ヵ国で仕事をしました。アメリカ、カナダ、イギリス(スコットランド)、スウェーデンで、開発途上国としては、タイ、フィリピン、そして当時はまだ内戦をやっておりましたスリランカで、仕事をさせて頂きました。暑い国も寒い国もあり、先進国や開発途上国、とてもバラエティーがあって面白い仕事でしたよ。
 
フライフィッシングの世界選手権
 
―退官されてからは何をなさってますか? たとえば、最近のご趣味は何ですか?
 
趣味は色々あります。一番の趣味は渓流釣りですね。いわゆるフライフィッシングという毛鉤で魚を釣る釣り方です。私だけでなく、家族みんなで好きなんです。これをかれこれ20年間やっていますね。最近では、フライフィッシングの世界選手権大会、つまりフライフィッシングのオリンピックですね。それに日本の選手として参加するようになりました。去年はスコットランドで開催されて、今年はポーランドでこの6月に開催されます。私は、今年68歳なので恐らく、最年長になりますね。ちなみに、去年の成績は27か国の130人の参加選手中、66位です。
 
氷川丸で2週間の船旅
 
―高校生のときにアメリカに留学されたのですが、そのことについてお話しいただけますか?
 
1960年、高校3年生のときに、アメリカに1年間留学しました。AFSという交換留学生の制度を利用して、アメリカのミネソタ州の小さな町ファーミントンにホームステイし、そこの高校に通って勉強しました。そのときは、氷川丸という船で太平洋を2週間かけて船旅をしたんですね。初めての外国でしたから緊張しましたよ。
 
ケネディの言葉に打たれる
 
―初めてのアメリカはどう映りましたか?
 
とにかく大きい国で、光り輝いていました。ちょうど日本の当時のGNPがアメリカの16分の1だったんですね。今でこそ大分アメリカのGDPに迫って来ていますが、その時代は、アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひくというような関係でした。
 
アメリカにいたときに一番感心したのは、1960年に大統領選挙があって、ケネディがニクソンをやぶって大統領になったことです。その選挙演説の様子をテレビでずっと見たりしていましたが、ケネディは若くて、知的で、ハンサムで、当時の強くて輝いているアメリカのシンボルのようだと私は思いました。
 
今でもよく覚えていますが、就任演説の時に、”Ask not what the country can do for you. Ask what you can do for the country”(「国があなたのために何が出来るのかを問うなかれ、あなたが国のために何をなしうるのかを問うべし」)という言葉を聞いて感激しましたね。
 
一年の終わりに、AFSの留学生全員がアメリカ各地からワシントンに集まって、ケネディ大統領に招かれてホワイトハウスに行ったことを良く覚えています。55ヵ国1700人ぐらいのAFS留学生が、ローズガーデンという中庭に招かれて、ケネディ大統領が出てきてスピーチをしてくれたんですよ。そのとき私は、大統領から10メートル位のところで聞いていたんです。
 
「皆さんに期待したいことがあります。それは、アメリカと皆さんのそれぞれの国々の間で架け橋のような役割を果たしてもらいたいということです。皆さんは一年 間アメリカで生活し、アメリカの強いところも知っているし、弱いところも知っている。そんな皆さんだからこそ、架け橋の役割を果たせると思います。」
 
力強い言葉でした。そのときには、まだ自分の考えははっきりしてなかったんですけど、国と国をつなぐ架け橋のような仕事かと考えていくうちに、外交官への道を考えるようになりました。
 
鎖国政策について意見交換をしませんか?
 
―アメリカ留学から帰って来て、留学前と後の自分はどうかわりましたか?
 
まず、自分の意見をはっきり言うことが出来るようになったことでしょうね。それはアメリカの高校教育で一番学んだことです。特に、スピーチのクラスで、自分の意見をいかにはっきり効果的に表現するかを毎日やらされたんです。一年終わる頃には大分英語も上達したし、人前でちゃんと英語で意見を言えるようになりました。
 
日本に帰国して、名古屋の旭ヶ丘高校3年生に編入して、半年ぐらい大学受験の勉強をしました。日本史の授業でちょうど江戸幕府の鎖国政策について勉強していたんですけど、私はある提案しました。「このクラスを半分に分けて、江戸幕府がとった鎖国政策は日本にとって良かったか、悪かったかについて意見交換をしませんか?」。先生はびっくりしたような顔をして、生徒も少ししらけていました。結局、私の提案は賛成されずに、いつもの通りのつまらない、一方通行の授業になりました。ちょっと残念でしたね。
 
シンハラ人とタミール人の架け橋
 
―外交官として働いてみて、イメージと同じような仕事でしたか?
 
色々な国で仕事しましたけれど、架け橋という意味では、当時戦争をしていたスリランカという国に大使として勤務したときに、日本は何とかして架け橋の役割をできないかと模索していました。その意味では、スリランカでの仕事が一番やりがいがありましたね。
 
スリランカは、80年代から内戦が続いていました。内戦というのは、スリランカの人口の約8割を占めるシンハラ人(仏教徒)と2割弱の少数派のタミール人(ヒンズー教徒)との間の民族紛争です。80年代初めからタミール・イーラム・解放の虎(LTTE)が分離独立を目指して武力闘争を始めて以来、ずっと内戦が続いていたんですね。
 
日本は、当時のスリランカに対する外国援助の6割 を占める最大の援助国です。なんとか内戦を止めて、スリランカが平和の下で発展出来ないかと、架け橋の役割を果たそうとしていたんです。ノルウェーが一所懸命、和平交渉の実現のために停戦合意の取り付けに頑張っていて、02年にようやく停戦合意にこぎつけたんです。これは日本の出番だと思い、和平プロセスのために乗り出して行ったんですね。
 
私も日本の大使としては初めてLTTEの本拠地(キリノッチ、スリランカ北部)に行って、LTTEのリーダーと何回もあって話をしました。結局そのようにして、明石康さんが日本政府のスリランカ復興開発のための日本政府代表に任命され、明石さんとそれから一緒に仕事をしました。
 
和平交渉は何回も行われましたが、そのうちの1回は日本の箱根で行われたんですよ。実際に03年の3月下旬に箱根のプリンスホテルにスリランカ政府関係者とLTTEの関係者に来てもらって、同じホテルに泊まって4日間和平交渉をしました。しかし、3月20日にアメリカのイラク侵攻がおきて、世界中がそのニュースで持ちきりになっていまい、箱根の和平交渉の記事はほんのちっぽけな記事にしかならなかったんですね。
 
いずれにしても、日本はスリランカ政府と反政府グループの間に立って、何とか交渉を前に進めようと努力していました。3ヵ月後の6月に、スリランカの復興開発のための国際会議を日本政府が主催して、東京で開催しました。世界中から55ヵ国、22の国際機関が参加しました。スリランカ復興開発の援助をどうしていこうかを話し合ったんですね。全体で45億ドルの復興支援を約束して、日本は10億ドルの支援を約束したんです。
 
その後、スリランカの総選挙があって政権ががらりと変わってしまい、新しいラジャパクセ政権は強硬政策をとり、LTTEを軍事的に壊滅させる政策を取り始め たのです。それで、強行軍事作戦を展開し、どんどんLTTEを追い詰めて、ついに去年(09年)の5月に彼らを壊滅させてしまったんですよ。
 
しかし、軍事的な解決は本当の解決になっておらず、まだ多くのタミール人は不満を抱えながら生活しているんですね。当初の日本の目的は達成できず、結果は残念なことでしたけれども、日本としては平和のための架け橋の仕事をしていたわけです。私はとてもやりがいのある仕事に携わることが出来たと思います。
 
日本はまだ外国から学ぶことがたくさんある
 
―退官されてから、今感じることはなんでしょうか?
 
最近の日本の若者は、とても残念なことですが、内向きであるということを良く耳にするのですね。日本の若者は、日本のことについて勉強するのはもちろん大切なんですが、もっと外に向けての関心を持ってもらいたい。日本での生活に満足してしまって、外の世界に対して関心が薄れてきている。日本はまだ外国から学ぶことがたくさんあります。積極的に外国の大学に留学して勉強してほしいですね。
 
―最後に、これから留学を考えている高校生・大学生・社会人にアドヴァイスをお願いします。
 
やはり、まず国際コミュニケーション能力をつけることでしょう。世界とコミュニケートするため、最初に英語を徹底的に勉強しなければならないと思います。単にベラベラ話せるだけじゃダメで、ちゃんと自分の意見を口頭で、時には文章で表現できるような英語でなければいけません。ただ、最近は英語だけではだめで、第2、第3の言語をマスターすることも必要でしょう。私は英語の他にはスペイン語も出来ます。最近国際機関では、英語だけでなく、フランス語やスペイ ン語でコミュニケートできる人でないと通用しないですね。

次に、言葉を使って語るべき内容を勉強してほしいということです。日本人として、日本のことを外国の人たちに語れるようにならなければいけません。語るべきことは、日本の歴史であり、文化についてです。最近は俳句のことを勉強している外国人がたくさんいます。外国人に「ハイクとは何ですか?」と聞かれたときに、ちゃんと日本の文化的伝統の話ができるようにしてもらいたいです。例えば、松尾芭蕉はどういう人物で、「奥の細道」にどのような俳句があるか を語れるようにしてもらいたいですね。日本について語れるような内容を持っていることが大事です。つまり、根なし草になってはいけません。日頃から日本の文化や歴史を勉強してもらいたいです。

インタビューアから一言

今回のインタビューは、程良い緊張感がありながらも、所々ユーモアあるジョークも交え、終始和やかに進みました。普段は家庭での父親の顔しか見られないのですが、今回のインタビューを通して外交官としての話を聞くことができ、新鮮だったと思います。私も「息子」ではなく、ひとりの「インタビューア」としてお話を伺い、いつもとは違った気づきを得ることができました。「父」ではなく元「外交官」とお話をすることで、外交官としての父のアドヴァイスを活かしていきたいと思います。
大塚清輔。1989年生まれ。東京都出身。外交官である父に同伴して、2歳から18歳まで、スコットランド、タイ、アメリカ(ニューヨークとマサチューセッツ)、スリラン カ、スウェーデンにそれぞれ約3年間ずつ滞在。日本の大学を受験しようと帰国。中央大学に入学し、法学部国際企業関係法学科3年に在籍。国際交流学生団体 The Asian Law Students’ Association(和名:アジア法学生協会)に入会し、活動中。8歳からスコットランドの伝統楽器であるバグパイプを続けており、各種イベントで公演している。