海外生活体験者・社会人インタビューvol.74

interviewee_s_192_profile.jpg 畑澤徹さん。中国北京市生まれ。明治大学卒業後、東京応化工業株式会社に研究員として入社。研究開発課に所属。28歳のとき、サンノゼにある子会社を経営。32歳のときに独立。現在、株式会社トライワールド代表取締役。現在は、中国、アメリカ、日本において、不動産業、留学生の日本への留学支援などを行っているため、世界中を旅する毎日である。

日米学生会議に特別参加する

―どのような大学生活を送っていましたか?

明治大学に通っていて、工業化学を学んでいました。その頃から、漠然と英語が必要だなということを感じていたので、部活は化学部の他に英語部に入っていました。そのときは今こんな仕事に就くとは全く考えていませんでしたが、考えると海外に関係することが色々とありました。

大学3年生のときに、船で台湾、香港、フィリピンに寄航してシドニー、メルボルンへと2ヶ月かけて回りました。これは関西のお金持ちの大学生を対象にしたツアーでした。私自身は応募していませんでしたが、母親の知り合いがこのツアーに空きがあることを知って、海外に行かないかと誘ってくれたのです。私が英語部に入っていたのを知っていたからでしょう。ここで、海外に行き新しい世界を見て、改めて海外に行きたいと思いました。当時、海外に出て行く日本人は年間で2000名程度。日本人は今のように海外に経済的にも出られなかった時代があったのです。

次に海外に行ったのは大学4年生のときでした。今度は自分から世界を見に行きたいと思ったのがきっかけです。日本からカリフォルニアに飛行機で行きました。旅費だけは親に出してもらい、そこでの生活費は全く持っていきませんでした。そこで、知り合いの知り合いの知り合い(笑)の人の家に泊めてもらうと、「シアトル市のワシントン大学で日米学生会議があるから、日本人多いんじゃない?」なんて安易な理由で、「行ってみれば?」と紹介され、行ってみたのです。

そこに参加していたのは、日本国内の選抜試験で選ばれてきた日本人だけでしたが、昔ですし、私は現地参加組ということで特別参加できました。そこでは、日米の学生が経済、政治、教育などのテーマに分かれてディスカッションしていました。理系で何も知らなかった私は、教育のテーマにしか入ることが出来なかったのが悔しく、理系だからといって政治や経済のことを知らないのはよくないと感じました。

その会議後、日米の学生たちがバスツアーに出かけるので、私も一諸に参加させてもらい、西海岸を周りました。その時代、日米学生会議に参加する学生はお金持ちの子供が多く、私大からたくさんの学生が来ていました。明治大学からも多くの参加者がいて、本当に仲良くなりました。いまだに連絡を取る知り合いもいます。人材という貴重な財産に出会えました。

「おい、学会で発表して来い!」

―卒業後どういうきっかけで海外に行くことになったのですか?

卒業後は東京応化工業に研究員として入社しました。そこで数年くらいしたときに、アメリカの学会で発表しろといきなり命令されました。英語部だったことや、大学時代の日米学生会議での経験を買われたのです。ですが、そんなこと言われても、NYでの学会発表は簡単ではありません。周りは英語を話せる人がゼロ。大抜擢でした。そこで、苦労しつつも学会発表を成功させ、次のステップに進みました。

―どういう経緯でアメリカに住むようになったのですか?

学会発表がうまくいったことから、そのままアメリカの子会社の社長に任命されたのです。まだ28歳でした。華やかな経歴に聞こえるかもしれませんが、他に海外に行ける人がいなかったというのが現状です(苦笑) そこで、シリコンバレーで一から工場を作り始めました。現地の人との交渉、英語もこのときに実務を通じながら身につけたようなものです。それが成功して、かなりいい暮らしができました。

独立、そして、工場での事故

―現在は独立されていますが、その後どうされたのですか?

32歳になったときに独立しました。子会社の社長は成功したのですが、このままいったら他の国でまた新しい工場を作ることを会社から命じられて、それをなんども繰り返していけば、日本には当分帰って来られないと感じました。やっぱり日本人と結婚したいなと思ったので、その機会がなくなると感じたからです。自分で会社を作れば、日本にもある程度フレキシブルに行けますから。

そこで、今までと同じような仕事を始めました。そのころ顧客はついていたので、独立してもお客さんがついてきてくれて、これは波に乗りました。

ずっと続けていてもよかったのですが、ある転機が訪れました。私は社長でしたが、現場に出ているのが好きでしたので、かなり現場に出ていました。そこで化学薬品を被ってしまい、事故で自分自身が失明してしまったのです。医者もお手上げでした。対処療法しかなく、目が見えない状態が長く続きました。ですが奇跡的に数ヶ月後、視力が少しずつ戻ってきたのです。不思議なもので片目ずつ戻ってくるのですね。

失明の世界で思ったことは、ふたつありました。一つ目は色を忘れてはいけないということでした。目が見えなくなると色は何もわかりません。形に関しては触れればこれがノートだってことはわかりますが、そのノートが白か黄色かなんてわかりません。色の大切さに気づいたんです。二つ目は、世の中には目あきには見えないものがたくさんあるということでした。目が見えていたときは、見えることだけに捕えられて、それを信じて生きている人が多いという感じですかね。失明したら人の心も良く見えてきました。

幸い視力は戻りましたが、会社は儲かってはいるものの、工場を続ける気にはなれず、売ってしまいました。それから、ロスに引っ越して暮らしていると本当に住みやすかったし、高級な物ばかり食べて、車ばっかり運転していたので、結構太ってしまい、ドクターストップがかかってしまいました。だから、健康を考えて、ロスを拠点にするのではなく、日本を拠点にしようと思いました。帰国直前にはアメリカの不動産の仕事に転進しました。

新しいビジネスに転身

―今はどのようなお仕事をなさっているのですか。

今は不動産業をしています。あとは中国、韓国からの留学生への情報提供を行っています。youtubeで “資格 アメリカ宅建”と検索すると私の動画が出てきます。ここではアメリカの資格を取りたい方に講義を行っているのです。最初この動画を作った理由は、自分の記録のつもりでした。インターネットにアップされれば、自分の姿が残るので、始めました。

他にも、中国でビジネスをいくつか行っており、中国によく行き、今では上海に住んでいます。その経緯から中国人の留学生から頼られることが多く、日本へ留学したい学生のサポートを始めました。こういった中国人の留学生のサポート業は日本で行っています。中国人の留学生が大変なのは日本に来るまでですが、この時期に留学生をサポートする企業がないという相談を受けました。ですから、私がそういった方たちに助言などをする仕事をしています。

日本以外でも生きられるように

―これから就職活動をする大学生になにかメッセージはありますか。
 
これは就職活動するということに関係なく、大学生は日本以外でも生きられるようにするべきです。仕事柄中国、アメリカに行く機会が多いのですが、中国の成長をものすごく感じます。家電量販店に中国人がたくさん観光で来ていることは知ってますよね。この前、秋葉原に行ったら、家電量販店には中国語を話せる店員の方が多いんですよね。

そのうち、日本は中国に支配されますよ(苦笑) 中国語を話せる人の方が重宝されるということです。日本語しか話せないんじゃ、これからはビジネスをやっていけないと思っています。私は中国語を必死に勉強しています。常に上向きじゃないとだめだと思ってます。日本だけで生きて行こうと思うのは間違いだと思います。

インタビューアから一言

本当にエネルギッシュな方でした。学生時代の日米学生会議の話は、一瞬本当のことかと疑ってしまいました(笑) 海外旅行をする日本人が当時は本当に少ない時代だったからこそ、許されたことなのかなと思います。そして、そこで日米学生会議があると聞いて、行ってしまうところが畑澤さんのすごいところなんだと感じました。世界を飛び回って、これからもご活躍願いたく思います。
内山紗也子。1986年鹿児島県生まれ。その後、東京、沖縄に暮らし、小学5年から2年間マレーシアに滞在。東京に帰国後、中学2年の夏から米国シカゴへ。高校卒業まで5年間在住。 Deerfield High School卒業後、帰国し、東京大学理科Ⅱ類に入学。現在、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻高度医療科学研究室の5年生。クルクミンと抗癌剤の併用効果の研究をしている。