海外生活体験者・社会人インタビューvol.75

interviewee_s_195_profile.jpg 奥田英信さん。82年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了後、ミネソタ大学大学院経済学科へ留学し、89年に同大学大学院博士(Ph.D. in Economics)を取得。その後帰国し、日本輸出入銀行(現、国際協力銀行)入行。91年3月に一橋大学経済学部講師に就任し、同助教授を経て、現在教授を務める。専門は開発金融論、主要研究課題はASEAN諸国の金融システムの発展と銀行業の計量分析など。これまでの研究地域はタイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、韓国、ブラジル。

最後に残ったのは10人ほど

―今日はよろしくお願いします! まず、なぜ留学しようと思ったのですか?

大学院修士課程在学中に、指導を受けていた先生から留学を勧められました。私自身も留学は学部在学中から考えていたのですが、そこで背中を押された感じです(笑)

―なぜミネソタ大学を選んだのですか?

ミネソタ大学大学院は、当時一世を風靡した合理的期待理論の中心地でもあり、経済学研究科としては、全米でトップ10に入る良い大学院でした。Applicationの返事が非常に早く、アプライして直ぐに入学許可が取れました。そこ以外にも、20校ほど資料を取り寄せましたが、結局、それ以外の大学にはアプライしませんでした。

当時私には日米教育委員会の奨学金が下りていたのですが、渡米後の3年目からは留学先の大学の奨学金が必要でした。その意味で、州立大学の方が奨学金が貰える確率が高いかと思ったのも、選んだ理由の一つです。

―実際、ミネソタに行ってみて、どうでしたか?

ミネソタに行く前に、現地では冬にマイナス気温になると聞いて、本当に住んでいけるのかなと思いましたね。でも、実際に行ってみたら、家の中は案外暖かくて、住みやすかったです。治安も当時は非常に良かったと思います。

―留学したときに印象に残っていることがあれば教えてください。

とにかく勉強はきつかった。もう一度留学しろと言われたら、おそらく出来ません(笑) 10月の入学時は私を含め40人ほどの学生がいたのですが、最後に博士取得まで粘っていたのは10人ほどでした。アメリカ人は勿論、他国からの留学生は、ミネソタ大学で経済学の勉強を続けることのリターンが悪いと思ったら、すぐ大学や学科を変えたり就職したり、合理的に判断します。私もアメリカ人だったら、迷ったかもしれません。

印象的だったのは、教授のオフィスには、本がないんですよ。アメリカでは、研究者は学術専門雑誌に論文を書くペーパーライターで、著書を書くブックライターではないんですね。仕事は飽くまで専門論文を書くことで、他のことはそこから派生したものにすぎない。だから読むのも専門誌で、よほど定番の専門書でもなければ、本は不要です。

それから、アメリカでは学生と教授が意見を言ったりディスカッションをしたりというイメージがあると思いますが、実際にはあり得ないことです。教授がとにかく良く勉強していて、学生は全く太刀打ちできないことがほとんど。だから、自分の意見を言うなど、ととてもできるものではないのです。留学前は、ずいぶんと間違ったイメージを持っていたのですが、考えれば自分が馬鹿だったということを思い知らされました。

タクシーから地面が見える

―留学後、なぜ日本輸出入銀行に入られたのですか?

日本輸出入銀行で、国際機関との協調融資を担当されていたエコノミストが一人辞められることになって、そのスポットを埋めるのに、私が中途採用という形で入りました。実際には、大きな組織ではよくあることですが、その方のポジションではなく、アジア担当の調査の仕事をすることになりました。

―どのような仕事に携わっていたのですか?

輸銀では、調査部に当たる海外投資研究所のアジア班に所属していました。初めに任された仕事は、パキスタンの電力改革のための世銀との協調融資に関わる調査です。本格的な調査の仕事は、フィリピンの金融改革のための世銀との協調融資に関する調査でした。

具体的には、世銀などの関連資料を使って、構造調整の実効性を評価して、問題点をリストアップする作業です。生まれて初めて途上国、フィリピンに行き、関係する機関や研究者などから聴き取りを行いました。ちなみに、そのとき話した中央銀行のエコノミストが、今のフィリピン中央銀行の総裁になっています。

―面白いですね! 他に印象に残っていることはありますか?

当時、フィリピン経済はどん底状態で、酷いものでした。私用でショッピングモールに行き、帰りにタクシーに乗ったのですが、車の底に穴が空いていて、走っているときに地面が見えるんですよ。怖かったですね。訪問先で、電気が頻繁に切れるらしく、クーラーがつかないまま、暑くて真っ暗のなかで面談をしました。こういった経験は、今まで大学や大学院で、あまりに長い間勉強しかしていなかったので、むしろ遊びに行っているような感覚で面白かったです。

ブラジルには、海外経済協力基金(現日本経済協力機構JICA)の援助案件の事後評価で行きました。援助の内容は、セントラル・ピボット(Central Pivot)型灌漑機器の設置資金を融資し、技術支援をするというものでした。そこで初めて、地平線というものを実際見ることができて、とても印象的でした。そのとき、現地のテレビ局から取材を受けることになりました。私は金融スキームの内容を調査していたわけで、農業の技術に関しては全く知らなかったのです。向こうの取材する目的を作るために、わざわざ農業技術者の振りをしながら、取材に応じたこともありました(笑)

「開発金融論」という言葉もなかった

―2年間働いたあと、大学での研究職に入られたそうですが、なぜでしょうか?

輸銀では、入ってから2年になる頃に、今後の進む方向を決めるべきときが来たと感じていました。確かに、政策金融機関の内部にいることによって、世銀との協調融資や各種の制度金融など、日本の政策の現場に立ち会っているかのような、ある種のやりがいはありました。非常に得難い経験をさせてもらったことは、今でも感謝しています。しかし、自分がある問題意識を持った場合、所属する組織の内部にいたままで、自分の問題意識を追及していくことは、やはり難しいのではないでしょうか。

―開発金融を研究テーマにしたきっかけがあれば教えてください。

そもそも大学院にいた頃は、開発金融ではなく、金融論と国際貿易を専門としていて、開発と金融を専門にする人は、当時はほとんど誰もいませんでした。しかし、発展途上国の開発経済を金融の方向から研究してみるのは、すごく価値のあることだと思ったんですね。日本語では「開発金融論」って言葉自体もなかったので、私が勝手に使いました。

―輸銀で得られたことがあれば教えてください。

働いてよかったことは、なによりも、当時は圧倒的な情報量を輸銀が持っていたということです。それから、政府レベルの関係者から話を聞くことができたことですね。彼らと話すことで、発展途上国のマクロ全体を捉えることができました。NGOや学生が現地に行って、社会を観察するのもいいのですが、どうしても低い視点から国を見ることになってしまう。例えば、学生が発展途上国のスラム街に行ってみる。そうすると、自分も、どうしてもスラム街にいる人々の視点を持ってしまうんですね。政府レベルの関係者と話すことによって、高いレベルからの情報を得ることができる。そのような情報も得られないと、国の本質的な物事を掴めないと思います。

その経験から、現在、私が教師として矛盾を感じているのは、学生に開発経済学を教えるのがあまりにも難しいということです。と言うのは、理論的なものを知っていても、現地の情報を知らなければ、何も語ることができない。逆に、現地情報をいくら知っていても、理論を知らなければ、発展途上国の経済を語ってはダメです。さらに、歴史的、文化的な側面の知識も、どうしてもある程度は必要です。こんな難しいことは、とても、半年の講義、30回の授業では不可能です。

例えば、国ごとの経済成長の仕方は異なっています。今までの日本の金融における発展を、アジア諸国で使えるかというと、それは難しい。例えば、輸銀に在籍していた当時、日本の経済が成長したのは郵便貯金があったからだ、だからアジアにも郵便貯金を普及させれば良いのだ、と主張していた人がいましたが、それは明らかに間違いですよね。郵便預金は、確かに日本の成長になにがしかの貢献をした部分もあるでしょう。だからと言って、アジアで通用するとは限らない。では、この日本の経験は、どう途上国に伝えるべきか。考えてみてください。

また、発展途上国の支援をしたいと言う学生がいて、海外ボランティアをしている人が多くいます。しかし、本当にそういった手段で発展途上国を援助できると信じるのであれば、学生なんてしている場合じゃないですよね。初めからNGOといった団体に入れば良いですよね。

私は、学生のうちは、まず理論を学ぶことが重要だと思います。大学という場所は、社会や経済の現実を学ぶことよりも、それを理解していくための理論や概念を学ぶための場所なのです。就職して、機会があれば現地を訪問して、その国について知ればいいと思います。学生のときは、現実が分からなくてもいいんです。将来、現実に出会ったときに考えることができるように、経済学の基礎理論から学べばいいのではないでしょうか。

―お忙しいところを、今日はありがとうございました!

インタビューアから一言

奥田先生は、私の大学のゼミの教授です。毎週のゼミでは、非常に刺激的で、興味深い話を聞かせていただいています。今回のインタビューでは、発展途上国の情報だけでなく、留学体験のことや、日本輸出入銀行の内情についても聞くことができ、たくさん勉強させていただきました。また、先生のことも詳しく知ることができ、感謝しています。これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!
吉江奏太。1989年生まれ。小学6年生から高校卒業まで米国カリフォルニア州サンノゼ、サンタバーバラに滞在。Dos Pueblos High Schoolに通う。高校ではバスケ部に所属し、州大会CIFに出場。高校卒業後、日本に帰国し、一橋大学経済学部に入学。現在3年に在籍。大学では開発金融を専攻し、バスケ・サークル代表を務める。国立バスケットボール・リーグ2010主催者。