海外生活体験者・社会人インタビューvol.77〜第1編〜

interviewee_s_199_profile.jpg 天野憲哉さん。1982年生まれ。東京都出身。高校卒業後、一橋大学・社会学部に入学、法学部に転部。大学2年次に、アフリカ・ウガンダにあるADEOというNGOで5ヶ月間研修生として働く。帰国後、アデオジャパンを設立。また、ユース団体のネットワークYDP Japan Networkを設立。現在、政府系金融機関に勤めて5年目になる。

中学生天野、シャプラニールへ行く

―天野さんの海外体験について教えてください。

2002年、大学2年のときにアフリカのウガンダに5ヶ月間NGOで研修をしてきました。

―なんでまた、アフリカに行こうと思ったんですか?

すごく遡ると、普通に「海外に行ってみたいな」って思ったのは、中学のときかな。中学のときに、ボランティアをやっていて。

―それは学内の部活動ですか?

うん。学校内でそういう団体を立ち上げたんだよ。立ち上げるの好きだから(笑)

―さすが! 中学生からそんなことしてたんですね。

(笑) それが中2かな。

僕の中学の入試のときに阪神大震災があって、3月に地下鉄サリン事件があったんだよね。中学に行ったときは、麻原彰晃ブームみたいになってて、なんだなんだって騒がしい感じで。その頃って、まだ社会との接点があまりないんだけど、なんとなく普通じゃないんだな、って分かるじゃん。中2のときは酒鬼薔薇聖斗事件だったんだよ。あの犯人が同い年。

僕の中高は、学年の160人中100人が東大に入り、残りの半分ぐらいが医者みたいな学校なんだ。僕が中学受験をした理由は、高校受験をしなくていいからってことだったんだけど、でも入ってみると皆早々に塾に行ってて、ビックリしたね。なんでだろ~って(苦笑) 大学だってたくさん選択肢があるわけだし、やりたいことやりたいな~と思って。

皆と全然違うことやりたいなって思ったときに、阪神大震災後がきっかけだかで、日本でボランティアのブームみたいなのが来たんだよね。無償労働というか、そういう「草の根の公的支援」みたいなのがブームになっていて、あれをやってみようってなったんだ。ちょうど「NGO」って言葉が日本に入りたての頃で、「NGOってなんだろうなぁ~」と思って、そういう会とかに参加してみたりしたんだよ。最初に行ったのは、「シャプラニール」っていう、バングラデッシュの活動をやっているところの講演会。

―シャプラニールですか。‘中学生天野’はそういうのに行くんですね!

それは中3かな。中2のときにある女性医師に出会って、その人は国内・途上国両方にかかわる活動をしている人で、その繋がりで、“わたぼうし語り部コンクール”で車いす補助のボランティアに継続的に参加してたんだ。そういう人から話を聞いたりしていて、もちろん国内に関心がなかったわけじゃなかったけど、高校に入ってからもう少しアカデミックな分野に嵌って行って、国際問題に移行して行ったね。

大学生天野、アフリカへ行く

―まだ、天野さんの中学・高校時代は、そこまでネットが普及していたわけではなかったですよね。どうやって情報収集してたんですか?

高校の社会(地理)の先生が色々知っていて、こういうのに行ってみたらとか勧めてくれた。だから、こういうことをやり始めたきっかけっていうのは、人との出会いが大きかったね。

―天野さんの環境が恵まれていたということと、お父さんがお医者さんということで、そういうことが身近にある環境だったっていうのは大きいんでしょうね。

そうだね。だから、なんだかんだ、ずっと医者になるのかなって思っていた。すごく悩んだし、今でも医者になってもいいんじゃないかって思っているんだけど、高校でアカデミックに社会問題とか社会学、哲学なんかをかじりだして、現場に行かなきゃなって強く思ったんだよね。

その当時は、医者って1対1で何かを動かす仕事だって思っていて、マスに対して大きく何かを変えられるかと言ったら、そうではないだろうと思っていたんだよ。だから1対1で何かをやるというよりかは、もう少し大きく「ムーブメントを起こしたい」っていう意識を持っていたんだ。それで、大学行ったら海外に行けるだろうから、行こうって。

あと、中高が縦の繋がりの強い環境で、高2・高3のとき、当時の東大AIESECの代表がバスケ部の先輩で、高3で東大の五月祭に行って、色々見て、こういう世界もあるんだ~って思った。大学入ったらAIESECに入ろうと思って、で、浪人したら仲のいいやつらとかが既に入ってて。

でも、結局東大に落ち、一橋に行くことになったと。東大は進振りあるから後からでも学部は選べるってことで、そのときは文IIで経済受けてたんだけど、でもどちらかと言えば相関・国関に行きたかったのかな。その頃は、これから先、こういうことやりたいってことの情報収集はやってたね。

―フットワーク軽いですね。

フットワーク軽かったね! 過去形になりつつあるけど(笑)

理論経済学そのものにはあまり興味がなくて、一橋だと経済学そのものになっちゃうから、社会学の方がいいと思ってそっちにした。そこで、入ったときに1個上の先輩にAIESECを通じてインドに行くってひとがいて、「あぁすごく面白いな」、「僕もこのパターンで海外に行きたいな」と思い、具体的にAIESECを通じて話を進めていったんだ。そのままインドって思ってたんだけど、アフリカっていう選択肢もあって、僕の前にADEOに研修に行った人から話を聞いて、「あぁ、ここいいな」って思ってアフリカにした。

―最初、アフリカに対してどんなイメージを持っていましたか?

やっぱ、一番よくわからないところだなって、想像が及ばなかったね(笑)

―私自身関わっていて、写真とか見ても、やっぱり砂漠。。。トイレあるのかな?とか、今でも思ってしまいます。

文字通り地球上でもっとも黒いところだったね。真っ暗な。

緊急援助の顔をした開発援助

―ADEOでの研修はどういった内容だったんですか?

まず最初に行ったのは首都のカンパラというところで、そこは普通の都会なんだけど、そこからまた北へ飛行機でスーダンとの国境にあるモヨっていう街に移動したんだよ。まぁイメージで言うと「青森に行く」みたいな(笑)  1970年後半から内戦状態のスーダンの依頼を受けて、北からの難民を受け入れているところ。

そこは、想像していたような「緊急援助」みたいな、そういう世界ではなくて、「20年も難民やってます」みたいな世界だから、10年、20年そこの土地に住みついた人たちばかり。モヨからそのキャンプのあるフィールドに行くんだけど、そこにも町の中心街があり、そこからさらに車でいったところの田舎の余った土地に難民キャンプがあると。僕はその町の中心街みたいなところに住み、移動が必要だから、そのためのタイムラインを作ったり道順を考えたりする仕事があり、そのアシスタントをやってた。

―私たちの想像する「難民キャンプ」っていうのは、一時的に「避難」いる場所で、それを救っていくのが「援助」ってイメージなんですけど、20年も難民をやってるって、もはや定住ですよね?

そう、結局内戦が終わらないから帰れない。住む場所、着る物、食べる物、飲む物が必要で、さらには教育も必要だし。

―学校とかあるんですか。

うん、キャンプ内に学校がある。あとは医療機関だね。そういうFunctionをUNHCRが全部自前ではできないから、それをNGOに委託するのね。その医療部門をADEOが委託されたと。面白いのが、ウガンダ政府は無償で土地を貸すわけだけど、なんで無条件でやるかというと、ウガンダ北部なんてウガンダ政府も何も出来ていないわけ。

だから、学校とか病院を難民キャンプとモヨの元々の田舎町との間に作ろうってことで、UNHCRからウガンダ政府にお金が下りてくるのね。そうすることで、Nationals とRefugees両方の用件を満たす仕組み作りがされているわけ。緊急援助の顔をした開発援助。だからADEOの記録とか見ると、今日はRefugeesが何人来た、Nationalsが何人来たっていうレコードブックになってるんだよ。

20万人に8つの診療所

―どういったレベルの医療が提供できるんですか?

そこも面白いんだよね。日本みたいに、病気にかかって病院に行くってのいうのでは、対応しきれないし、面倒見切れないじゃん。そもそも、病院に行けない人たちもいるわけだからね。だから、そもそも病気に掛らないにはどうしたらいいか、正しい栄養をつけましょう、手洗い・うがいをしましょう、とか、マラリアになるのは蚊が原因だから、水たまりが出来ないようにしましょう、っていうのを僕らが指導しないといけないんだよね。200人くらいの集落があったら、選ばれたコミュニティ・ヘルスワーカーっていうのがいて、そのヘルスワーカーに指導をするっていうのがADEOの仕事だったの。

後もう一つ、リプロダクティブ・ヘルスワーカーっていうのがいて、エイズの話とか、お産の話とか、このコミュニティで誰が産気づいているとか、そういうのを把握して、ここにはこういうリスクがあるっていう主に性や出産に関することを把握している人。

難民は全部で8万人、国民合わせると20万人。8つの診療所があって、それではもちろん全部はまかない切れないから、それぞれのコミュニティでコミュニティ・ヘルスワーカーを育てて、そこでなんか病気があったっていったらADEOがそこへ行く。でも、もちろん個々に移動手段はないから、診療所行くにも車を出さなきゃいけなくて、ADEOが救急車を出して、それで行き来する。そこの診療所で対応しきれないと、モヨの中心部に、モヨ・ホスピタルっていう、一応レントゲンが取れるくらいのところがあって、そこまで送り込むってことをやっていた。第2編はこちら>>
岡村美佳。1986年東京生まれ。4歳から8歳までの4年間をアメリカのニューヨーク・カリフォルニアで過ごし、日本に帰国。中学1年生のときに、今度はイギリス・ロンドンに渡り、5年間過ごす。Marymount International Schoolを卒業後、日本に帰国し、06年に東京大学理科Ⅱ類に入学。教養学部生命認知科学科を卒業後、東京大学総合文化研究科に進学し、現在修士1 年。大学では、酵母を使ってDNAの転写・組み換え機構について研究を行っている。