海外生活体験者・社会人インタビューvol.77〜第2編〜

interviewee_s_199_profile.jpg 天野憲哉さん。1982年生まれ。東京都出身。高校卒業後、一橋大学・社会学部に入学、法学部に転部。大学2年次に、アフリカ・ウガンダにあるADEOというNGOで5ヶ月間研修生として働く。帰国後、アデオジャパンを設立。また、ユース団体のネットワークYDP Japan Networkを設立。現在、政府系金融機関に勤めて5年目になる。

ある意味、スターみたいな

―それは何台の車でやるんですか?

全部で4台。

―それで8万人に対応できるんですか?

だから、今どの車が動くとか、ドライバーの勤務管理とかのアナログなシフト表作りとかを僕がやってたの。この人がこのとき休暇を取りたいから、じゃ違うNGOから人借りて来るとか、そういった遣り繰りをやってたね。車をその日どう配備するかっていうのが結構重要で、救急車が人々の移動手段にもなってたから。ADEOには医者が3人くらいいて、医者もその診療所に回っていくわけよ。だから、今日は医者がこういうルートで診療所を回っていくっていうのも重要で、コミュニティ・ヘルスワーカーがどこで今日なんかあるからっていうのも考えつつ予定を組む。だから、あぁ面白いなぁって思ったし、こういう仕組みで動いてるんだ~っていうのを学べて、すごくよかったんだよね。

―そういう支援をするのが外国人であるっていうことは、現地の人の目にはどう映っているんですか?

まず、色が黒くない人がいないわけだよね、僕以外に。まぁ完全に異質だよね。ある意味、スターみたいな(笑) ホントに見たことがないわけだから。小さい子供にはジャッキー・チェンと言われたり(笑) 下手すると勘違いしちゃうからね。本当の意味でのCross Culturalになっているかっていったら、そうじゃなくて、完全に変な話スターみたいな感じになっちゃうから。誰もが注目するような形で入って行って、そういう意味ではなんか特殊な海外体験ではあるよね。

―私は逆だと思いました。アジア人、何? みたいな。。。

あぁ、そういうのはないね。多分アジア人っていう感覚も分かる人と分からない人がいたし、欧米人って言ったら、そうだと思ってしまう人もいただろうし。ADEOが上手いのは、外国から人を呼んでおくと、このNGOってなんかちょっとやるな~って周りのNGOにも見せつけられるし、UNHCRにもアピールできるっていうね。ADEOにとってのメリットはそこだね。ほかには日本からも毛布とかも送っていたから、UNHCRにアピール出来て、すごいWesonga(ADEO代表)は賢いよね。

―なるほど~~~!

流れ的に官僚かなって思った

そういう作業をして行って、予算が足りるとか足りないとかいう話になると、予算を扱っているUNHCRに交渉に行くんだよ。当初の予算と、こういう理由でギャップがあるから、埋めてくれって。一緒に連れてってもらったりして。そこにいるUNHCRのスタッフも、当時のアフリカの地域トップはエジプト人だったんだけど、それ以外はほとんどアフリカ人。もちろん、あるNGOのトップがドイツ人とか、欧米人もいるにはいたんだけど、現場レベルにはほとんどいないし、欧米人はそもそも現地の言葉が喋れない。

コミュニティ・ヘルスワーカーの何がすごいって、軽く7、8言語、色んなトライブの言葉が喋れるんだよ。この能力って僕にはないし、身につけようと思ってもいいんだけど、それってなんかちょっと方向違うなぁって思って。UNHCRに行ったとき、僕は色々現場を見ながら、こういう問題があってこういう解決法があるんだ、なるほどって聞くんだけど、彼らはすごい表面的な対応になっていてね。モヨっていう地域自体、ウガンダの北部で、もう難民が20年もいるわけだから、UNHCRのバジェット自体がどんどんカットされていく中で、国連のお金はそこへの関心は全然ないわけよ。そういう大きな流れみたいなのを目の当たりにした。

ウガンダっていう国からすると、UNHCRは大きな収入源だっていう構造に僕はすごい関心があって、その仕組みを作る側に行って、何か考える側の方が、やっぱり僕がやることなのかな~って。

仮に、僕がその現場に医者としていても、やることないなって思った。僕がそのアチョリ族のアチョリ語を喋れるかっていうと、喋れない。向こうの医者って、もうマネージャーだから、Wesongaが典型的にそうなんだけど、自分が実際に患者を診るんじゃなくて、自分は医療の知識があるから、知識をBackgroundとして、じゃどう経営していくかっていうのが、面白いなって思ったね。

―それって現場の人にしか出来ないことですよね。

そう、だから医者にならないと専門的には行けないとしたら、流れ的に官僚かなって思った。なんか少なくなってたんだよね、中高の仲間もだし、一橋も。ちょうどロースクールが出来た頃で、官僚になりたい!みたいな人がいなくなってたんだよね。昔は3年で司法試験に通り、4年で公務員試験だったんだけど、そういう人たちがいなくなって。

まぁ、入り口として官僚になるのがいいかな~って。僕の問題意識っていうのは海外だけではなかったから、そこらへんにも同じような問題があり、ひずみなり、ゆがみなり、矛盾なりっていうのがあるから、「草の根」っていうのももちろん大切だけれど、制度面で変えていくってことの方が性に合っているかな、と。

このNGOを応援することが、僕にとっての社会貢献

―そこから帰国し、アデオジャパン立ち上げに入っていくわけですね。

そう、じゃ日本でも活動を続けていこうと思って。そのときのWesongaとかADEOのスタッフがすごい好きで、なんかちょっと変わってたんだよね。ローカルスタッフとか遊び人が多くて、飲み会やると中心になるような人がたくさんいた組織だったのよ。Arsenalを応援する会とか、口実をつけて飲み会を開く、みたいな(笑) すごく面白くて、僕はこのスタッフ陣好きだなって思った。

―くそまじめな感じの“NGOです~”みたいなのじゃない、本当に現場に根付いた人たちが社会貢献している、っていう感じですね。

そうそう、そんなに真面目にやるものじゃないし、そういう感じの方がいいと思ったし。あとはWesongaの経営の観点が最大の魅力だね。周りにいた7、8個あるNGOの中で、アフリカ人がマネージメントしているNGOって2個くらいしかなくて、本部がドイツとかイギリスのNGOとかばっかり。このNGOを応援することが、僕にとっての社会貢献なんじゃないかなって思った。だから、途上国のNGOの支部を先進国に立ち上げたら面白いんじゃないかなと思って。

そのとき、たまたまWesongaを日本に連れて行こうってなったんだよ。大学の先輩が日本のUNFPAでインターンをしていて、シンポジウムを企画するんだけど、誰かゲストでいないかって相談されて。ウガンダってエイズ対策先進国だから、うちのボス連れてけばいいんじゃないかって話がでて、それじゃあ連れて行くわ~!ってなって、Wesongaを日本に連れて来たんだよ。それが2003年の9月。僕の帰国と同時に来日したんだよ。

日本ではADEO本部の立ち上げにもかかわったことのある森さん(NPO法人ワンセンブルウ理事長)とWesongaと話したりして、一緒に外務省行ったりして、日本で営業して。それからアデオジャパンを立ち上げようってなったわけ。その冬かな? 僕と入れ違いでもう一人のアデオジャパン創設者、小栗がアフリカに行き、本格的にやり出したのは小栗が帰って来てからだね。

小栗がガッキー(注:アデオメンバー稲垣)に言ったのは、行ってからが勝負だってこと。「行きたい、行きたい」で、大学のときにAIESECを通じて行く人は多いんだけど、じゃそのあと何やるんだっていうのは、それぞれだよね。最初にあった問題意識を大切にした方がいいんじゃないかってのを僕は思っていて、海外だから出来るとか日本だと出来ないとか、そういう話じゃ多分ないでしょ。最初の問題意識に誠実であるならば、「どこにいようとやることなんだろう」って話。

楽しく明るくファンキーにやっていこう

―ガッキーが帰って来てからアデオジャパンは本格的に始動したと。それが2004年ですよね。日本での活動を始めて行くわけですが、どこからどう手をつけていったんですか?

最初はADEOへの直接支援みたいなイメージが強くて。そのとき、外務省案件があったから、そことやり取りしつつ、アフリカのADEOの方へお金を提供してくれる先があるから、そこにも行きつつ、あと、自分たちでもバジェット取って来れないかと試行錯誤していくわけ。

渉外もやっぱり難しくて、僕らの場合、ADEOがメインでアデオジャパンがサブっていう二重構造じゃん。じゃ、君たちがやってるわけじゃないんだね? みたいに責められるわけよ。だから、理解されず、財源確保も難しいなと思っていたときに、ちょうど小栗がアフリカ日本協議会(AJF)の主催する感染症研究会に行って、そこでAJFの稲場さんに出会って、話してるうちに、「君たちエイズやったらいいんじゃないの?」ってなった。

稲場さんもバリバリなアクティビストだから、彼みたいなのって一つの憧れていた路線でもあるから、僕は面白いって思って、そこからエイズをやりだしたんだよ。その頃、HIV/AIDSの業界?って結構閉じていて、まぁ今でも閉じてるのかもしれないんだけど、予防財団がやっているエイズ講習会とか行くと、今でもわりとそうなんだけど、ゲイの方ばっかなんだよ。あとは、そういうボランティアに興味のある女の子しかいないの。

そこへ、ヘテロの甘いマスクの小栗みたいなのが行ったら、なんだ、こいつら!?みたいになって(笑) で、僕も小栗も最初に言ったADEOの現場のコミュニティ・ヘルスワーカーっていいよね、と思ってて、「このアプローチを日本に持ってくればいいじゃん」「ピアエジュケーションをやってけばいいじゃない」ってなったんだ。

日本でのエイズ教育とかってすごく偏っていて、僕らがやる意味があるよねって言って、アースデーとか学祭でコンドームを配ろうって。それを楽しく明るくファンキーにやっていこうっていうコンセプトになったんだ。

アデオジャパンのスタンスって、現場に行って自分が汗をかくことが解決じゃないって思っているところがある。何か、こう特化して「タイに学校を作ろう」とかではなく、色んな団体を巻き込んでキャンペーンやろうっていう感じ。もちろん現場での活動にインパクトがないことはないけど、ムーブメントを起こして、誰かの行動変容を促すっていう方がいいんじゃないかなって思う。そして、それをやるために、システマティックに何かある制度なり組織なりの媒体を通じてやれればいいよねっていう発想があるね。それがあとのYDP、wAdsなんだけど。

とっつきにくいから、こう、ど~んと(笑)

―当初は、学祭でコンドーム配るとか、異質だったと思うんですけど。

ないじゃん? そんな団体(笑) だから、すげーおもしれーってなって。

―HIV/AIDSって、どんなアプローチでも、やっぱりとっつきにくい話題だとは思うんです。もうちょっとオブラートに包む方法もあったのでは(笑)

そう、だから、どっちにしろとっつきにくいから、こう、ど~んと(笑)

―一橋祭とか、最初どんな反応でしたか?

学祭で配ろうが、アフリカン・フェスタで配ろうが、ビミョーっちゃビミョー、だったかな。

―期待するような、目に見えるような実績は上げられましたか?

そういう意味では、一発目ではなかったんだけど、一橋祭に2年、3年と出続けたから、そのときに、「あぁ、またここで配ってるんだ」っていう認知はされ始めて、そういうツールとして学生に使ってもらえたから、それはよかったね。時間の掛かることなんだよね。

大学3年のときはそういう感じで、4年が激動の1年。年の初めあたりから、YDP(Youth Development and Peace、ユース団体のネットワーク)が始動していて、6月ぐらいにイベントをやって、9月にICAAPっていうエイズの国際会議が神戸であって.それに皆で乗り込み、2005年の年末はwAds(world AIDS day series、HIV/AIDSの予防啓発キャンペーン)の一発目だね。多分、このときイベント作るのでヒーヒー言ってたね。

―そりゃ国Iも落ちますよ(笑)

そうそう(笑) 官僚試験は2005年の頭だったから、YDPの前だったな。だから、あまり準備はやらないって言ってたんだけど、試験1週間前とかにアフリカンフェスタのブースにいたりして。

ウォルフォウィッツ(世界銀行元総裁)に会ったり

―初めてのwAdsはどれくらいの数の団体を巻き込んだんですが?

5、6団体巻き込んでた。むしろこのときの方が、ちゃんと「団体」を巻き込めてた。「個人」でなく。クラブイベントとシンポジウムが二大看板かな。シンポジウムは、世銀の設備使って、海外のユース団体と日本のユース団体のパネルディスカッション。05-06の世銀のグローバルなテーマみたいなのが「ユース」だったから。

元々、世銀のカウンターパートは国だったんだよね。アフリカだったらウガンダ政府だったり、エジプト政府だったり、政府に直接お金を貸して公共事業をやらせるっていうモデルだったんだけど、でもそれだけだと、環境とか人権に配慮がないって問題があって、で、NGOもカウンターパートにしようとか、世銀にとってのstakeholderが広がっていたんだよね。それは80年代から続く開発の流れの中でね。

その流れで、ユースっていうのも一つのカウンターパートになるべきなんじゃないかと。ユースは何を考えているかっていうのを、ちゃんと知るべきじゃないかってなって、グローバルレベルでそういうテーマが決まり、日本でも何かできないかってところから声がかかったわけよ。「やります、やります!」って言って、その流れでウォルフォウィッツ(世界銀行元総裁)に会ったりしてたんだよ。

―アデオジャパンが浸透してきたな~と感じたのはいつ頃ですか?

wAdsやってからくらいかな。もう僕が既に学生でなくなりつつあったときだけど、「なんかすごい人がたくさんいる団体があるらしい」と。まぁ小栗(甘いマスクのイケメン)が広告塔になってたから(笑) 小栗すげーみたいに最初なって、で、ガッキー(生粋のピアエジュケーター)って変な奴がいる、みたいな。大人のNGOにもそれなりに知られて行ったし。あと、やっぱり稲場さんとのつながりがも大きかったね。第3編はこちら>>

第1編はこちら>>
岡村美佳。1986年東京生まれ。4歳から8歳までの4年間をアメリカのニューヨーク・カリフォルニアで過ごし、日本に帰国。中学1年生のときに、今度はイギリス・ロンドンに渡り、5年間過ごす。Marymount International Schoolを卒業後、日本に帰国し、06年に東京大学理科Ⅱ類に入学。教養学部生命認知科学科を卒業後、東京大学総合文化研究科に進学し、現在修士1 年。大学では、酵母を使ってDNAの転写・組み換え機構について研究を行っている。