海外生活体験者・学生インタビューvol.89

interviewee_s_201_profile.jpg 辻雄太さん。1990年栃木生まれ。生後8ヶ月に渡米。7才で帰国し、10才のときに再度渡米。Dublin Scioto High Schoolを卒業後、2009年6月に帰国。予備校で大学受験のために勉強し、2010年4月に学習院大学法学部法学科に進学。ハイスクールからアメリカンフットボールを始め、大学では体育会アメフト部に所属している。「困ってる人を助けたい」というナイスガイ。

周りにいた日本人は親兄弟くらい

―いつごろから覚えてる?

俺が覚えてるのは、そうだな、幼稚園くらいからかな。現地校だったんだけど、教会の地下室みたいなところ(笑) まあ、途中から校舎は変わったんだけど。

―その時の思い出は?

すごく泣き虫だったんだよね。送り迎えしてもらってたんだけど、離れた瞬間にビャーって泣き出して(笑) ずっと窓のところにへばりついてた。

―迎えに来たときも泣いたの?

それはなかった(笑) てか、けっこう覚えてることは、日本語補習校に一年生で入ったときのことかな。そこで初めて日本人にたくさん会ったんだよね。同学年の。衝撃的だったよ。

―現地校に行ってたもんね。

そう。それまでいた日本人は親、兄弟くらいだからね。一緒の幼稚園にいたのも1、2人で、それにずっとアメリカ人と仲良くしてたから。

―じゃあ、日本語が不自由だったりしなかった?

いや。俺ね、家だと普段ずっと日本語だったからね。ちっちゃい頃、英語を話してたかどうかさえ覚えてないから。だからほとんど問題なかったよ。

―バイリンガルって感じだったんだ?

それは全く憶えてない。英語しゃべってたかどうかすら。

―補習校での思い出は? 日本人といっぱい会ったから、遊びに行ってたとか。

それはないね。補習校自体なんか週一回だけだったから、そのとき遊ぶって感じで、それ以外で特別遊んでたりはしてなかったよ。でも、毎回お弁当をくれた子がいたよ。ここ伏線ね(笑)

―わかりました(笑)

車が多すぎて渡れないって

―7歳で栃木の宇都宮に本帰国したよね

うん。家族全員でおじいちゃん家の近くにね。600Mくらいのとこかな。

―小学校は日本人小学校?

そうそう普通の小学校。

―なんかアメリカから来たから、初めて日本に来たって感じでしょ? なにかショックなことはなかった?

おばちゃんが言ってたんだけど、学校初日に出てったのはいいらしんだよ。俺と兄貴で、二人揃って帰ってきたらしいんよ。どうしたのって聞かれたら、車が多すぎて渡れないって(笑)

―信号機が赤、青とか抜きで?(笑)

らしいね。それまで横断歩道使ったことなかったからね。俺の住んでたところ、田舎だったし、普段歩くことはなかったから。車には乗ってたけど、他の車が走ってるのは見たことなかった。止まってはいてもね(笑)

それと1年のとき一番ショックだったのは、入っていきなりすぐ朝の体操とかいってクラスの教室の後ろのほうに集まって「WAになっておどろう」を強制的に踊らされたこと。ドン引きでした。

―なんでドン引きしたの?

全然知らない音楽で、しかも全然知らない奴といきなり踊れとか言われたらさ。アメリカではそんなこと絶対ないし。自己紹介もなくいきなり踊らされて。それからの自己紹介だよ。手順間違ってるだろってね。

あと、日本に帰ってから、日本語にちょっと苦労した……らしい。漢字が全然書けなかったんだよ。あと数学。ちょっと手こずったね。でもすぐに追いついた。

徐々に友だちとも馴染めてきて。帰国ってことで皆珍しがって話しかけて来てさ。すぐに馴染めたよ。

ESLをパスしたのはG9

―でもまたすぐに渡米したんだよね。友だちと離れるの辛くなかった?

辛くはなかったかな。てか、そのとき、英語が全然しゃべれなかった(笑) ホント‘Hello’くらい。ゼロからのスタートだね。

―そっちがきついんだ?

きつかったね。ESLに入ってたし。G3からだったんだけど。それでG4のときに、高校までずっと仲の良い友だちに出会えたね。

―ESLで?

違う違う。普通に現地校の同じクラス。

―アメリカ人か。じゃあこのころにはもう英語について乗り越えてたの?

いや、まだだったけど本当に身振り手振りで伝わったし。カタコトの英語でも遊んでくれた。そいつとはG4から高校卒業するまで友だちだからね。

あともう一人いて、アメフトに誘ってくれた子。始めたのはG8からだけどね。

この出会いが現地の小学校での思い出かな。

―ESLはすぐパスしたのかな?

いや、パスしたのはG9だよ。俺なぜか試験だけパスできなくて。なんかすごく先生に嫌われてたんだよ。採点は厳しいし、しゃべったら怒るし。それプラス試験のときに寝ちゃって。不真面目だったな。

―そりゃ嫌われるわ(笑)

お弁当のおかずでわかった

―小学校よりも週1の補習校の方が印象に残ってるのかな?

そうだね。同じ補習校にG4で戻ったんだけど、お弁当の子を見つけた。その子の顔じゃなくて、お弁当のおかずでわかったんだよね(爆) 全く同じ中身だった。あっちも覚えてくれててさ。ちょっと嬉しかったね。それでまたおかずもらった(笑)

それに、その頃はまだ英語しゃべれなかったから、補習校のが好きだった。日本語が思考のベースだったし。言うならば、日本の小学校の延長みたいで、その分安心できたよ。週1だけだったけど、日本人がいるってだけで安心だった。

―では、補習校での思い出は?

小6での修学旅行だね。オハイオ州のカヨホガバレーに行ったんだよ。蒸気機関車が走ってる、オハイオで唯一の観光地みたいなところ。一泊二日ね。それで、ラウンジみたいなところで、荷物の整理をしてたのよ。そしたら転校してきたばかりの女の子を紹介されて。「やっべ、この子かわいい!」って思ったんだよね。

―一目惚れですか(笑)

ビビビッときたね(笑) 中1の運動会のチョイ前にお泊り会をしてさ。友だちに言っちゃったんだよね。そしたら運動会終わった頃には本人にもバレて。。。その頃メールのやり取りをはじめててさ。3通目でいきなり「ごめん。君とは付き合えない。てかキモイんだけど」って来たからね。ショックだったよ。だって告る前にふられてるんだから(笑) 親にまでバレたし。気まずかったわ。

―確かに印象に残るね。補習校は帰国するまでいたの?

いや、補習校は中3で辞めたよ。アメフトが忙しくなったからね。土曜日に試合があったんだけど補習校も土曜日だし。しかも補習校内の人間関係がドロドロしてきたからね。ちっちゃいコミュニティだからさ、皆固まってて。俺はそれも嫌でやめた。

―そこは日本人らしいね(笑)

そう。しかもその時には英語には不自由しなくなって、学校のが楽しいなって思ったから。

ルールも分からず、初陣反則3回

―アメフトはどうだった?

最初はヘタでヘタで(笑) しかも、ルールも判ってなくてやってたから、思いっきり反則してて。それが正しいと思ってたから、初陣で反則3回もしたよ(笑) ルールは実際やっていく中で覚えた。本は一年経ってから読み出したね。それまでは友だちに聞いたりとかしてたよ。

ちなみに、2軍の最後の試合で、俺がもうちょっとでタックルを決めるところを、逆に味方にタックルされて思いっきり捻挫した。何が起こったか理解不能だったね。足首を捻挫したんだけど、しばらく松葉杖だったよ(苦笑)

―やっぱり大変だね。。。

だけど、G12には1軍入りを果たしたんだよね。かなり嬉しかったよ。それを隠してたけどね。シャイボーイだったんだよ。ただ、初チャレンジでいきなり怪我しちゃって。俺は降格したんだ。そしたら、代わりに入った奴もすぐに怪我して。それで俺はまた返り咲いた。すごくいい経験だったよ。スポーツ馬鹿っぽく聞こえるかもだけど。

―じゃあアメフト好き?

どうだろう。練習が嫌いなんだよね。走るのも鍛えるのもやだ(笑)でも、すごいイイ思い出なんだよね。一生付き合える友だちもできたし。これからもやっていきたい。だから大学でもアメフト部に入るよ。

本当に自分で日本人って言えるのか

―なぜ日本の大学か

大学は最後の学生生活でしょ? このままアメリカで過ごしていいのかなって思って。やっぱり日本も経験してみたかったんだよ。それに、アメリカの大学卒業しようが、アメリカで就職することもないだろうし。俺はグリーンカードもなにも持ってないから。日本で就活する際にも、アメリカの大学だと不利だし。そして、なにより授業料が高い(笑)

―日本を経験してみたいってのが一番の動機かな?

本当に自分で日本人って言えるのかって聞かれたら、イイ切れないし。でも、俺は日本人という自覚があるのね。物の考え方にしろ何にしろ、どこまでも日本人なんだよ。アメリカとのズレを感じるし。アメリカはキライじゃないけど、同じ道は歩めないかなって。どんなに楽しくてもね。自分はどっちなんだろうって考えちゃうよ。晃一も長いからそう思うだろうけど。

―俺は香港の大学は難しくて諦めただけだよ(笑) でも、確かにその気持ちはある。

介護支援ロボットを作りたかった

―なぜ理系志望だったの?

ロボットを作りたかったんだよ。日本に帰ってくる一年前におじいちゃんが死んだんだ。介護を必要としていたんだけど、大柄だったし、支えられるほどの人が周りにいなかったんだよ。死んだときに親戚の一人がポツリと「雄太くんがいたら間に合ったかもね」って言ったんだ。

それがすごいショックだったんだよね。俺が必要とされてるときにいなかったって。何のために鍛えてたんだろうって。それに皆が皆俺みたいに鍛えられるわけじゃないし。それこそバーベル持ち上げられるみたいな。介護を必要とする人が増えていく以上、誰でも介護ができるようにパワードスーツを研究したかった。

しかも、おじいちゃんが死んだ年って、俺のおやじの任期が切れたんだよ。だから、俺はその年に帰るはずだったんだ。でも、俺がアメフトやりたいとかワガママ言って、一年伸ばしてもらったんだ。それで、俺のワガママのせいで、母は親の死に目に会えなかったって思うと……ね。それに、個人的におじいちゃんが好きだったし。介護が充実してたら、長生きしてたかもしれないし。

介護技術の研究によって、多くの介護従事者が楽できるようになれば、それだけ多くの人の役に立つということだからね。やっぱり自分のためより人のためにがんばりたいし。

―でも、人のためが自分のためなんだよね。その人が喜ぶと自分は嬉しいんでしょ?(笑)

そうだけどさ(笑)

自分が本当にしたいことをしろ

―でも、なんで文転したの?

うーん。。。東京理科大には受かったんだよ。そこで、俺が目指してるパワードスーツの研究者に話を聞いたのね。そしたら、学生の内に大学で出来ることは限られているって。ほとんどの人が就職するわけで、研究者になるのはほんの一握りだけだと。俺はその競争に勝ち抜く自信もなかったし、そもそも理系の勉強できないと思った。化学の物質の名前も覚えられないし、物理の理論もわからない、計算も苦手。

それに、おばあちゃんに自分が何したいかを話す機会があったんだよ。そしたら、そんなことはしなくていいよって。おじいちゃんのためじゃなくて、せっかくアメリカにいたんだから目標を限定しないで、自分が本当にしたいことをしろって言われて。

それで色々考えてたら、高校のときに紛争を生き延びた人の講演会があったことを思い出してさ。国際性についての卒業レポートを書いたら、予想外の高評価だった。これが俺にしかできないことじゃないかなって。枠組みに収まらずに、広い視野で物事を考える。長くアメリカにいたからこそできることをしようと思った。つまり、紛争などの問題を法学的アプローチで解決しようと思ったんだよね。

―日本の大学で良かったか?

もちろん。きっかけをくれたみんなに感謝です。

―将来は開発問題に取り組みたいと聞いたけど、それと法学的アプローチの勉強はどう関係しているのか?

例えば、ダム建設の際に立ち退きを余儀なくされる人たちがいるじゃん。彼らの新しい土地への不安を拭ったり、説得して彼らの信頼を得たり、事をスムーズに運ぶためにも、法的知識は必要だと思うんだよね。だからプランナーみたいなことをしたい。その人たちが不利益を被らないように最低限の保障をしたいんだよね。

それに、村の再開発とかは世界中で行われているから、強みである国際性を生かせると思う。そしてなるべく痛みが少ない開発を進めて行く。不利な状況に置かれていたり、圧迫されたりしている人の生活や権利も保障したい。

―やっぱり困っている人を助けたいっていうのがベースにあるんだね。

そうだね。最初はパワードスーツって思ってたのが変わったように、将来の夢も変わるかもしれないけど、この気持ちは変わらないと思う。

インタビューアから一言

辻くんは予備校からの友だちなので、気さくに質問ができました。かと言って、ふざけて回答することもなく、一問一答お互いに真剣でした。それを通じて私が思ったとは、彼は私と似ていることです。互いに日本を長く離れており、日本への憧れは人一倍強いと思います。おそらく、ある部分、日本人よりも日本人らしいです。まだ、お互い1年生ですが、将来を意識した貴重な時間を過ごせたと思います。
山本晃一。1990年香港生まれ。香港で18年間暮らす。現地の日本人小学校・中学校を卒業後、Concordia International Schoolに進学。2009年6月に卒業後、帰国し横浜国立大学経営学部会計情報学科に合格。現在1年に在籍。大学で夢中になれるものを模索中。