海外生活体験者・社会人インタビューvol.78

interviewee_s_203_profile.jpg 石田紀郎さん。1940年生まれ。63年に京都大学農学部卒業。同学部助手、助教授を経て、京都大大学院アジア・アフリカ地域研究科教授に。03年に退官した後、NPO法人「市民環境研究所」を設立し、代表理事に就任。その後、京都学園大学バイオ環境学部教授を兼任し、同職を10年4月まで務めた。現在は人間環境大学特任教授。40年来、公害や環境・農業問題を中心に、市民運動など幅広い分野で活躍中。90年からアラル海問題に強い関心を抱いており、カザフスタンには毎年渡航している。

遊び、闘い、学んだ日々

―まず、先生の学生時代について教えてください。

知ってのとおり、私の大学生活は長いんで(笑) まずは、学部生だった頃について話そうか。

私は1959年に京大に入学したけど、今と違って1回生のキャンパスが宇治にあったんで、毎日大津(滋賀県大津市)から通学してた。でも、なかなか教室にはたどり着けなかったな。道の途中に映画館や神社がたくさんあったんで、よく道草食ってたんだよ。なんとか学校にたどり着いても、今度は途中の卓球場で卓球を始めてしまい、教室に着く頃にはもう夕方で、家に帰らなきゃならないという日がよくあった。

でも、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。59年の秋から、日米安保闘争が始まって、学生はみんなビラ配り、集会、カンパに駆り出されたんだ。実際、私もバリケード封鎖なんかやったしね。そんな生活が翌年まで続いたよ。

61年の4月あたりには、学校もすっかり元通りになったんだけど、その後が大変だった。というのも、その当時、2回生から3回生になるには、必須科目があって、なにせ学生運動ばかりやってたから、まともに勉強してなくて(笑)

もちろん、付け焼刃で勉強はしたんだけど、数学はどうしても苦手で、試験を受けたら、これは落第すると、自分でも自覚するほどの出来だった。でも、これ落とすと進級できないから、どうしようかといろいろ考えて、ある雪の日に、酒一升瓶持って数学の先生の家を訪ねて、「単位ください」ってお願いしたんだ。それが功を奏したのか、試験の結果は62点で、なんとか3回生になることができた。

だけど、あれから「勉強しないとアカン」と思うようになったね。そもそも、自分は田舎の農家出身だったんで、「農業について学びたい」という意識を入学当初から持ってたし。入学してしばらくはそれを忘れてたけど、進級のときに思い出すことができたんで、3、4回生の頃は心を入れ替えて、まじめに勉強したよ。そのおかげで、どの科目も成績は常に「優」をキープできた。

―それで、学部卒業後は、大学院にお入りになったのですよね?

うん。私は1963年に大学を卒業したんだけど、まだ勉強し足りてないと思ったんで、大学院に入ることにした。一日中研究する傍ら、自活するために家庭教師のバイトもこなした。もちろん、居酒屋は毎日通ってたよ(笑)

「何のために学問を学ぶのか?」

―大学院卒業後は助手になられたと聞きましたが、どうしてですか?

もっと勉強したいと思っていたのが主な理由だけど、偶然という要素も大きかったかな。私は1968年に博士課程を終えたんだけど、就職に失敗してしまって、どうしようか悩んでたんだ。ちょうどそのとき、助手のポストが空いてね。そのまま大学に残ることができた。

その後、1年間まじめに研究してたんだけど、同じ年に東大闘争が始まって、それが京大にも波及してくると、またしても勉強どころではなくなってしまったんだ(笑) でも、そのときの私は学生ではなく、むしろ教える側だったから、助手会を組織して、「何のために学問を学ぶのか」ってことを、皆で徹底的に議論したよ。

研究室から現場へ

―先生の「何のために学問を学ぶのか」という問題意識はどこから来ていたのですか?

実はその頃は公害問題の最盛期で、各地でそれが問題となっていた。でも、行政は腰を上げようとはしなかったし、研究者の多くも、どうやって工業を発展させるか、どうやって生産性を高めるかの研究に終始していて、そうしたことで被害を受ける人たちへの関心は低かった。それを見て、私は研究者のはしくれである以上は、学問から少し距離を置いて、現場から学び直すことも必要なんじゃないかって思うようになったんだ。

それから、私はいろんな公害現場を歩き回ったよ。和歌山で起きたニッソール(毒性の高い農薬の一種)中毒事件に端を発する日本初の農薬裁判では、原告の農家さんたちと一緒に勉強会を開いたりした。これ以外にも、琵琶湖、新居浜、有明海、新潟といった各地の公害現場を歩き回って、それらの実態を調査した。

―でも、最近は公害問題に関する報道は少ないですよね?

そうだね。でも、それは公害問題がなくなったというわけじゃなくて、単に人々の関心が減ったというだけ。公害問題は現在も残っている。

―話は変わりますが、公害問題は先生の専門分野ではないですよね?

その通り。私が大学で長らく研究していたのは、植物病理学と言って、端的に言えば「いかにして効果的に農薬を使い、害虫や疫病を防除するか」を研究する学問だった。でも、公害の発生原因は多種多様で、自分の専門外の知識が要求されることが常だったから、そうした専門の大家の先生の下で勉強したよ。

1日に水が200メートルも引いてくという現実

―話は変わりますが、先生は海外でも積極的に活動なされていますね。

海外では、主にカザフスタンをフィールドにしていて、ほぼ毎年渡航してる。きっかけは1989年に琵琶湖で開催された「文学と環境フォーラム」に参加したことかな。その頃は、すでに公害問題・環境問題に取り組んでいたんだけど、そのフォーラムではカザフスタン(当時はソ連の一部)から来た研究者が、「(農業灌漑政策の失敗により)アラル海では、1日に200メートルも水が海岸線から引いていく」と発表してた。

でも、にわかに信じられなくて「嘘だろ」と反論したら、「じゃあアラルに来い」と言われた。そこで実際に調査しに行ってみたら、一日に150メートル引いていることが判明して、驚かされたよ。人間の活動によって、ここまで環境が変貌するなんてね。

これを見て、アラル海問題の実態をさらに調査すべく、日本カザフ研究会を設立して、研究仲間とともに20年近く活動を続けてきた。最近は、干上がって砂漠化したアラル海の湖底に植林する活動をしてる。でも、砂漠化した土地で植物を生かすのは、容易ではないんで、大変だよ。

終わりに

―最後に、今の大学生に向けて何かメッセージをお願いします。

学生さんには、「自分は何をしたいのか」を常に考えてほしいね。別に「人のために役立つことをしなければならない」なんて意識する必要はない。自分が楽しいと感じることをやればいいと思う。有限な時間やお金は、そういうところに使えばいいんじゃないかな。

もし、自分のやりたいこと、やってて楽しいと感じることが見つからなければ、いろんな現場に行って、いろんなことに挑戦するなかで見つけていけばいいと思う。「仕事や学業が忙しくてそんなことできない」なんて言う人もいるかもしれないけど、それは基本的に言い訳だと思う。忙しい仕事の合間を縫ってボランティア活動に参加している人はごまんといるし、それ以前に自分のやりたいことを職業にする必然性はないしね。

京大農薬ゼミ
http://dicc.kais.kyoto-u.ac.jp/KGRAP/
市民環境研究所
http://www13.plala.or.jp/npo-pie/index.html
日本カザフ研究会
http://www13.plala.or.jp/npo-pie/jrak/index.html

インタビューアから一言

1回生の頃、ふとしたきっかけから農業に関する講演会に出席し、そこで石田先生に出会いました。当時、農業にさしたる関心を持っていなかった私は、先生の話から農業の奥深さに惹かれ、先生もメンバーとして活動する自主ゼミ「京大農薬ゼミ」にそのまま参加し、ゼミのメンバーとともに和歌山の畑でミカンを採りまくり、京大で先輩方相手に売りまくるような人間になってしまいました。ゼミの関係で先生とよく話すことが多いのですが、ここまで深く突っ込んだ話をしたのは今回が初めてでした。本当にありがとうございました。
吉村政龍。1989年東京生まれ。小学5年から約8年間台湾に滞在。Dominican International Schoolを08年に卒業し、帰国。予備校で約1年間受験勉強に明け暮れた末に、京都大学法学部に合格し、入学。昨年は大学で学ぶことの意義に疑問を抱き無気力に陥ってしまったが、2回生になる今年からは法学と経済学の勉強を両立させながらロースクールを目指すと同時に、いろいろな新しいことに挑戦することを決意した。