海外生活体験者・社会人インタビューvol.87

interviewee_s_217_profile.jpg 大森徹さん。三重県津生まれ。高校2年生のとき、AFSにより1年間アメリカ・ミルウォーキーに留学し、帰国後東京大学文科Ⅰ類に入学。71年同大学法学部卒業。同年日本航空入社。経営企画室部長、米州西部地区支店長などを経て、04年4月に日本トランスオーシャン航空(JTA)に移籍し、07年社長就任。10年6月退任。

今回インタビューを受けていただいたのは、2010年6月まで日本トランスオーシャン航空で社長をしていらっしゃった大森徹さん。人生を変えた留学、その後のキャリア、航空業界での活躍、面接官をしていた経験から最近の就職活動などについてお話を伺いました。

「よくもまぁこんな国と戦争したな」

―今と違い、海外へ出る人も少ない時代に、どうしてアメリカに留学しようと思ったのですか?

高校2年生のとき、AFSという機関の留学プログラムの第12期生となりました。個人負担が1ヶ月分のお小遣い17ドルで、それを12ヶ月分振り込んだら、あとは全ての生活費が向こう持ちという有難いものでした。応募した理由は、9つ上の兄がこのプログラムに応募、不合格となった歴史があり、両親や兄弟から「お前は行くんだ」と勧められていたので、自然に申し込みました。その年は全国で110名ほど合格したと思います。

―アメリカに留学してみてどうでしたか?

ミルウォーキーに留学することになり、私立高校のSeniorに編入しました。7月下旬に渡米、最初は夏休みで、ホストファミリーと話す分には英語は特に困らなかったので高をくくっていました。英語は得意だったですし。ですが、学校が始まったら、唖然としてしまいました。まったく何もわからない。

最初の数週間は「自分は日本の代表だ」という気持ちで、寝ないで宿題もやっていましたが、数週間で諦めました(笑) 自分の出来る範囲のことしか、結局は出来ません。それでも、3ヶ月くらいたつと英語で夢を見たんです。嬉しくなって、ホストファミリーや学校でそのことをと言いふらしていたことを、今でも覚えています。

最初英語は苦労の連続でしたが、数学は本当に簡単で、APの授業をとっても、」こんなに簡単なのか!と驚きました。”Mathematical genius”なんて言われていました。他の科目では、授業後30分先生に特別に講義をしてもらっていました。裕福な環境で、周りの人もとても余裕があったし、留学生も少なかったので、常に気を使ってもらえたので、素晴らしい環境で授業を受けられました。ちょうどベトナム戦争が始まって、大学に行けないと軍隊に入れられるかもしれないという意識が少なからずあって、みんなまじめに勉強していました。

―その時代のアメリカは、私が行っていた頃とは少し違うと思いますが、どんな印象を受けましたか?

考えてみれば、当時(1965~66年)はアメリカの絶頂期ですから、とにかくゆとりがあると感じました。サンフランシスコ郊外のスタンフォード大学でOrientationがあった後、ミルウォーキーまでバスで2泊3日かけて行きました。 その途中、それぞれの留学先に仲間が散っていくわけですが、ネブラスカからアイオワにかけての広大なとうもろこし畑をみて、「よくもまぁこんな国と戦争したな」と感じました。日常の生活でも、肉やミルク、オレンジジュースの美味しさにびっくり。数ヶ月で10kgも太ったので、さすがに危険だと思って、レスリングを始めたりもしました。

あとは、積極性をすごく重視することに驚きました。周りが積極的に発言するから、自分もわからないなりに「ハイハイハイ」と手を挙げていました。日本人が珍しいので、色んな機会にたくさん発表もさせてもらって、度胸もついたと思います。ほんとうに楽しい経験でした。

―楽しい生活の後、帰国してカルチャーショックなどはなかったのですか?

案外早く切り替えましたね。すぐ受験勉強を始めました。ただ1つ違和感を持ったのは、父親の母親に対する扱いでした。アメリカではホストファミリーでレディーファーストの精神を教えられたので、もっと母親を大事にしろと父親に言いましたが、一笑に付されました。高校2年生に編入したのですが、アメリカの高校卒業資格で大学受験が出来ると知り、東京大学を受けたら合格してしまいました。ただ、結果的に日本の高校を中退することになったのには、一抹の寂しさを感じています。

―すごいですね! 留学すると1年またやり直すのが普通なのに。

御巣鷹山で人生が変わる

―大学ではどうしていたのですか?

1年の終わり頃から学園闘争が始まり、授業のない状態が続き、正直言って全く勉強しませんでした。その後、3年生の最後に授業に出てみたら、周りは就職が決まっていて焦りました。そこで、まだ選考が残っていたJALとヤマハを受けて、JALに入ることになりました。

―JALではどういった仕事をしていたのですか?

71年から働き始め、まず機体の整備工場で総務の仕事をしました。そのあとパイロット関連の人事とか予算を担当しました。かれこれ10年ほどこうした仕事が続きましたが、何かもう少し面白い仕事はないの?というのが正直な思いでした。

その後営業に移り、セールスマンとして旅行代理店などを訪問する、いわゆる「外回り」を数年経験しました。年代からいっても、このまま順調に行けば海外かなと思っていたら、御巣鷹山事故が発生し、人生が変わりました。

この事故のために経営陣が全員変わり、自分はあろうことか新社長の秘書になったのです。仕事の進め方にしても、気の利かせ方にしても、自分は秘書には全く向いていないと思っていました(笑) 社長は本当に忙しくて、秘書と言えども、どこかへ出かける車の中でしか打ち合わせできない日々だったと記憶しています。

そんな中でも、社長が3年半ほど我慢してくれましたね。そのうちに自分の海外に行きたいという希望を汲み取ってくれたのか、或いは我慢の限界だったのか、89年にはサンフランシスコ支店に異動になりました。

そこでは総務と販売のマネジャーを兼任しましたが、とても楽しく、仕事量も適度にあって、快適に過ごしました。セールスの相手は日系の企業が中心でしたが、折からのバブルの絶頂期、日本発のお客様で予約が一杯になってしまう、それもファーストクラスから先に売れるという状態。現地の企業の皆さんの予約を取るのに相当苦労しました。

その翌年90年にバブルが崩壊し、需要が冷え込みました。アメリカのシリコンバレーはまだ元気でしたので、急激な落ち込みはなかったように思います。ただ、会社全体の業績は悪化し、コスト削減が不可欠な状況となりました。サンフランシスコ支店は米州でも一番古いオフィスで、平均年齢も高く、生産性を上げるための諸々の改革を進める必要がありました。最後の一年余りは、人員削減も含め、こうした取組みに力を注ぎました。

92年に東京へ帰ってきて、労務部の課長となり、パイロット関連の組合を担当しました。96年には東京地区の国内販売部長となり、代理店、企業などにJALに搭乗してもらうべく営業活動を展開する、その最前線の指揮をとりました。部下が180人くらいいて、毎週月曜日に朝礼の挨拶をしないといけないので、そのネタを考えるのに苦労していましたね。年間約1300億円の収入責任を負っていましたが、仕事自体はとても楽しく、とてもやりがいがありました。

98年には本社の国内営業部長となり、会社全体の国内線営業戦略を任されます。ちょうど自由化が始まり、スカイマーク等の新規航空会社が参入、運賃も従来の政府認可制から届出制になったりと、従来にない変化に正直戸惑いながら、各種新運賃の企画などを中心に、忙しい時期を過ごしました。全席禁煙やマイレージが始まったのもこの頃からです。自由に色々企画でき、やりがいを感じた一年でした。

99年に経営企画室部長になりました。会社の収支計画を担当しましたが、当時JALの業績はなかなかよい結果が出ない状態が続いていました。会社全体にどうも「利益」あるいは「収支」という意識が希薄で、収入と費用、それぞれの部門がバラバラに勝手なことを言う、この辺りを変えるために、例えば、ある路線ではいつまでにどれくらいの利益をどうやって弾き出すか、目標感を持った取り組みを始めました。2000年あたりから、少しずつではありますが、結果が出て来たように思います。もっとも10年後に会社は破綻しましたから、大きなことは言えませんよね。

01年には、Los Angelesを含めた、米州西部地区支店長に就任しました。エアラインの支店長というのは、実務がそれほどなく、結構暇になりがちです。当初それなりに戸惑いは隠せませんでした。

着任半年後に9.11が起こりました。当時Los Angelesには、成田、関空、名古屋、ラスベガス、そしてブラジル路線が発着しており、JALの海外支店の中では、香港に次いで忙しい空港であったと記憶しています。9.11直後の数日間は、空港には本当に人が溢れ返り、お客様をさばくのに大変な思いをしました。一段落すると、今度は急激に旅客数が落ち込み、名古屋、関空等、不採算路線が次々に廃止となりました。

その後も、SARS騒ぎがあったりと苦労の連続でしたが、南カリフォルニアという地域でJALのPresenceをどう出すか、そのことを現地採用のスタッフにどう伝え、気持ちよく積極的に動いてもらうか、楽しくマネジメントしたように思います。加えてLos Angelesならではの映画産業へのセールス展開は、折からの『ラストサムライ』や『キルビル』等の日本ブームもあり、大変いい思い出が残っています。

04年に沖縄へ異動となり、日本トランスオーシャン航空(JTA)の労務、人事、株式、広報担当の役員となりました。数年間は沖縄ブームが続き、業績も順調でしたが、07年からは需要が下降傾向となります。

その07年社長に就任しました。就任1年目は燃油のヘッジのおかげで何とか利益を確保しましたが、その燃油がさらに高騰したこと、これに加え、08年はリーマンショック、09年はインフルエンザと、次々に発生する「向かい風」に対応すべく、徹底的なコスト削減を図り、同時に従来のビジネスモデルを変え、思い切った路線の改廃を実施しました。コスト削減のために、本社ビルの掃除の頻度まで変えたりしたことを思い出します。その結果、09年度には営業利益と経常利益を確保することができました。

10年1月に親会社(JAL)が破綻しました。子会社が利益を出していても、色んな我慢を強いられることを社員にわかってもらうのが大変でしたね。グループ全体として、すべての不採算路線から撤退することを余儀なくされ、JTAにもその対象となる路線があり、いくつかの地方自治体に謝りに行ったりしました。

その分余った機材を使って新しいビジネスを始めました。台湾・沖縄間のチャーター便を運航し、国際線進出への地慣らしをしたり、従来主にJALが運航していた那覇・福岡線をJTAがすべて引き受けたりといったところです。相当の人員削減も実施し、何とか10年度以降の見通しをつけたところで、10年6月社長を退任しました。

変化する環境はある意味面白い

―LCC(格安航空会社)が羽田空港に発着しますが、航空業界はどうなっていくでしょうか。

羽田空港の発着枠はまだ希少価値があり、座席も高く売れるはず。そこにLCCが入ってくれば、日本の航空会社はいずれ成り立たなくなるのではないかと心配しています。企業の論理ではありますが、あえて申し上げれば、政府として航空という交通インフラをどうするのか、方針を決めないといけないと思います。諸外国においても、自国のエアラインに対するしっかりした考え方を持ち、その上でLCC等へ対応しているのが普通です。もちろん、自国のエアラインが「なくなってもよい」というのも一つの選択肢ではありますが。

―航空業界に就職する学生にアドバイスはありますか?

今はまさに業界の大きな変革期なので、その意味で大変面白いと思います。これからアジアのマーケットは確実に伸びるでしょうから、働く場所はアジアに展開していくかもしれませんね。仮に日本企業が新しい格安航空会社を作るとしても、例えば、上海を基地とするような形態がコスト面でも現実的だと思います。

また、ジャンボ機からダウンサイジングし、効率のいい事業展開を進める趨勢にあります。一機当たりの座席数減=一席当たりのコスト増ですから、益々コストダウンの戦略が必要になってくるでしょう。航空会社とは言っても、派手さはなくなり、一所懸命考えて、これからの変化に耐えられるものを作って行かなければならないと思います。

JALは幸い再建計画が順調に進んでいるようですが、今後に何が起こるかはわかりません。エアラインというのは、例えば、原油の高騰、あるいは9.11やSARSといったいわゆる「イベントリスク」に常に晒されていますから。今回の事業規模縮小により、こうしたリスクを回避しやすい体質になり、かつ今後のgrowth factorを大きくする狙いだと思います。

これからはもっとallianceを活用していかなければいけないでしょう。航空機や空港施設等の経営Resourceもalliance内でどんどん共有していく方向だと思います。

学生の間にやりたいことって見つかるのか

社長として最終面接に関わってきましたが、最近の学生は自分で何をやりたいかを真剣に考えているという印象を受け いました。それはいいことでもありますが、学生の間に、やりたいことって本当に見つかるのかと疑問に思います。厳しい時代だからこそ一所懸命考えるのは、素晴らしいことです。ですが、適性ややりたいことって、実践抜きにして結論の出るものでしょうか?

会社に入ってみて、仕事を与えられて、どう評価されるように頑張るか。そして、その評価を糧にして、さらに頑張っていくか。こういう経験を経て、能力が身に付き、適性に近づくのではないでしょうか。ですから、自分を成長させるためにも、まずは入った会社で頑張ってほしいなと思います。

―貴重なお話ありがとうございました。

インタビューアより一言

航空業界について、中からの貴重な意見を知ることができ、大変参考になりました。大森さんが、毎回その場所ごとに業績を改善すると、すぐ他の部署などに昇進なさっていて、日系企業とはいえども、優秀な人にはどんどんチャンスを与えられるのだなと思いました。そして就活に関しても、やりたいことと適性に悩むのではなく、やはり色々なことにチャレンジしてみようと思いました。
内山紗也子。1986年鹿児島県生まれ。その後、東京、沖縄に暮らし、小学5年から2年間マレーシアに滞在。東京に帰国後、中学2年の夏から米国シカゴへ。高校卒業まで5年間在住。 Deerfield High School卒業後、帰国し、東京大学理科Ⅱ類に入学。現在、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻高度医療科学研究室の5年生。クルクミンと抗癌剤の併用効果の研究をしている。