海外生活体験者・学生インタビューvol.100

interviewee_s_222_profile.jpg 加藤晃子さん。1986年滋賀生まれ。膳所高校理数科入学後、家族とともにフィリピンのスービックへ。インターナショナル・スクールで9年生から12年生を過ごし、06年京都大学経済学部へ進学。大学から交換留学生として派遣されたメキシコ留学中は、予てから興味のあった写真と社会学を学ぶ傍ら、日墨交流学院で日本語教師アシスタントとして働かせてもらう。大学5回生になる現在は、今春公開予定の地域住民参加型映画「ふるさとがえり」の制作の手伝いをしている。夢は途上国への恩返し。来年度から総合商社勤務予定。

―今日は宜しくお願いします! 加藤さんとは、ほとんど話したことないのですが、なんとなくアクティブで、おおらかな印象があります!

ゲートの内側&ゲートの外側

―まず、海外生活の概略を教えてください!

高校受験を経て、高校1年生の1学期まで日本にいて、フィリピンには高校卒業まで4年間いたよ。その後は、京都大学経済学部に入学して、大学2回の後期から大学3回の前期まで、メキシコに1年間留学してました。

―どうして、フィリピンに行くことになったのですか?

両親の仕事の都合で行くことになりました。受験勉強を頑張って、高校に入ったばかりだったので、当時あまり気乗りはしませんでしたが、家族が皆行くというのでついていきました。

当時、高校1年生だったので、私は10年生に編入するかなと思ったのですが、ESLのクラスが9年生までしかなく、英語力の向上のために、9年生に編入しました。その後は4年間、同じインターに通い、卒業。校舎は、元々米軍のアジア基地の施設を改修したものでした。

フィリピンは2カ月が雨期で、残り10カ月は乾期なんだけど、乾期は本当に常夏という感じでした!

―フィリピンのどの辺りに住んでいたのですか?

スービックという、フリーポートゾーンに住んでいました。そこは、経済特区で、フィリピンの中では少し特殊な場所です。経済特区はゲーティド・タウンみたいなもので、周りから仕切られているのですが、ゲートの内と外で、かなり環境が違うという印象を受けました。

外ではコンクリートの舗装がない道や、ピナツボ火山の火山灰に埋もれた教会などが当たり前のようにありました。ゲートの外に行くことも規制されていて、他の同級生も外に行こうとはあまりしませんでした。そのため、現地の人々とはそこまで、関わる機会がなく、今では非常に残念に思っています。

ゲートの内側には、主に外国人が住み、外側には現地の人々が住みます。今、思い返してみても、ゲートの内側は、ゲートの外側と比べてみても、なんというか、かなり不自然でしたね。

海&ジャングル&BAR

―現地の人々にはどのような印象を受けましたか?

みな優しいなと素直に思いました。皆が皆を、互いに尊敬している感じです。私は、転入当初、英語をあまり上手く話せなかったのですが、英語の苦手な人たちを皆で支え合っていて、理解しやすいように言葉を選んで、話をしてくれました。

言語的な意味だけでなく、宗教や国籍に関しても同様で、皆理解を得ようと頑張っていました。アメリカ人が2人、日本人が1人といったように、クラスの人たちの国籍がバラバラということもありますが、そのような努力のおかげで、私は国籍をあまり意識することがなかったです。

―フィリピンで印象に残っていることを教えてください!

海と森とディスコかな!(笑)

―なんだか、面白いブレイクダウンですね(笑)

でも、本当にそればかりでした(笑) 私はスキューバダイビング部に所属していて、毎週末に潜っていました。フィリピンの海は本当にきれいで、水がすごく透明でした。30メートルくらい下も簡単に見ることが出来るんですよ! 他にも、潜ると沈没船やすごい綺麗なサンゴ礁があったりして、本当に楽しかったと思います。

ダイビングしているときに、水中ですごい金属音みたいなのが聞こえて、すごく怖かったことがあったんです。後から聞いてみると、割と近くでダイナマイト・フィッシングをしてたみたいで……。ダイナマイト・フィッシングというのは、水中でダイナマイトを爆発させて、魚を気絶させて捕獲する漁業の一つなんです。でも、違法なんですよ。その影響で、サンゴ礁にも穴があいていたりしていて、結構衝撃的でした。あと、私に当たったらどうするんだって、怖がりつつも思いました(笑)

―次は、森ですか。森って、すごいな……(笑)

森はね、学校の近くがジャングルだったんです。ジャングルには、大蛇や大きくて恐竜みたいなトカゲがたくさんいて、大自然に触れている感じでした。学校の駐車場に猿が円陣組んで、たむろしてたりして、何をしているんだって覗いてみたら、バナナ食べてただけだったり。猿には、威嚇になるから歯を見せたら駄目って、友だちに注意されたこともありました。だから、猿がいたら歯を隠していました(笑)

―ラストはディスコですね(笑)

最後はディスコだよね(笑) お酒を飲まなくても、友だちと一緒にディスコには、よく行ってたんです。結構色々な人がいて、衝撃的な話もありました。

ディスコで知り合った人と、意気投合して話しているうちに、どんどん身の上話をしだしたんです。その人は孤児院にいたらしいんだけど、嫌だったから抜け出したみたいで、ダンスをしたかったらしいけど、孤児院に戻らないとダンスも出来なくて、でも戻りたくなくてって悩んでいたら、パトロンに出会えたらしいんです。

それで、今はダンス学校に通っていて、サークルに入れて、好きなことが出来て、夢に向かっていて、人生が変わったって言ってたんですけど……、その後に現れたそのパトロンが、絵にかいたような成金みたいな感じで(苦笑) 本当に、こんなのもあるんだって、衝撃を受けました。

自分はたまたま、日本人に生まれて、それなりのお金を持っている家に生まれたけど、本当そんなのは偶然にすぎないんだって、痛感しました。

メキシコがなんとなく近いかな

―今振り返ってみて、どうですか?

日本にいたころは、性格的にキッチリしていたところがあったけど、フィリピンに来て、いわゆるスローライフを学んだと思います。ゆっくりした時間の使い方もあるんだって。友だちの父親のボートを借りて、一日中クルージングしたり、泳いだり。ゆったりと、自然を楽しんでいた。そういう時間の使い方が、フィリピンで学んだことの一つかな。

―京都大学はどうでしたか?

色々と逆カルチャーショックも受けたりしましたが、楽しかったです!仲好かった友達が留学生だったので、海外にいる時と同じような感覚でした。でも、大学で留学する前はアメリカ人やカナダ人が多かったです。留学後は、ペルー人やコロンビア人と一緒にいることが多くなりました。

―大学に入って、割とすぐにメキシコに留学したそうですが、どうしてですか?

フィリピンにいたときは、現地の人々との距離を縮めることがっできなかったのと、フィリピンだったら、ラテン・アメリカのメキシコがなんとなく近いかなって思ったのが理由です。メキシコでは、現地の人たちとシェア・ハウスをしていました。メキシコ人のおじいちゃんやおばあちゃん、お姉ちゃんと一緒に住んでいましたよ。

前期は主に社会学系の科目を履修して、スペイン語を学ぼうと必死に勉強していました。ただ、あまり上達しなかったので、冬休みには語学学校に通って、スペイン語の上達に努めました。

後期からは、語学学校での努力もあり、スペイン語がそれなりのレベルで話したり聞いたりできるようになったので、ボランティアや好きな科目をするようにしました。シェア・ハウスしている人たちが危険と言っている地区の旧日本人学校で、日本語を教えたりもしました。逆に、スペイン語を教えてもらったりして、飲み屋とかに連れて行ったりしました。本当にためになりましたし、楽しかったです。

後期の授業では、写真の講義を主に履修していました。写真家の先生について、勉強するんです。知り合いのおじいちゃんに頼んでドキュメンタリーを撮ったり、デモ隊を観に行って写真を撮ったりしていました。その後、先生に構図などをチェックしてもらいます。

ニュースなどをみて、インフルエンザが本当に危険だと感じたので、帰国することにしました。本当はもっと、メキシコに留学していようと思っていたので、ちょっと残念ですね。

インタビューアから一言

加藤さんとのインタビュー時間は、普段より短かったのですが、非常に内容のあるお話を聞かせていただきました。あまり話をしたことがなかったのですが、アクティブだという印象は、今回のインタビューで確信に変わりました。また、非常にバイタリティの高い人だとも思いました。加藤さんのアクティブさ・バイタリティを是非とも見習わせていただきたいです!
山下博之。1988年神奈川生まれ。小学校6年生の3学期からロサンゼルスへ渡り、高校卒業まで、滞在。中学校から高校1年までは日本人学校。西大和学園カリフォルニア校(6th,7th,8th,9th)、Los Angeles International School(10th)、その後、現地のWest High Schoolに転校し、卒業。帰国後、京都大学経済学部に進学し、現在3回生。国際経済学(本ゼミ)とイノベーション戦略(サブゼミ)に所属。サークルは、野球サークルと新書講読会に所属している。