海外生活体験者・社会人インタビューvol.88〜後編〜

interviewee_s_218_profile.jpg アレン玉井光江さん。広島県出身。ノートルダム清心短期大学を卒業後、アメリカ合衆国にあるNotre Dame de Namur University、San Francisco State University大学院を卒業。日本に帰国後、文京女子短期大学の「子ども教室」で仕事を始め、神田外国語学院など専門学校で非常勤の講師を務める。その後、大学の教員になり、テンプル大学から英語教育学の博士号取得。文京学院大学、千葉大学に勤め、青山学院大学でも非常勤講師を同時に勤めていたが、昨年度より、青山学院大学の英米文学科英語教育の教授を勤めている。今までに10冊の本を出版しており、JACET、JASTEC, JESなどの様々な団体に所属している。

教師になろうと思ったことはない

―では、教師になろうと思ったきっかけはなんですか?

教師になろうとは思っていなかったわ。ただ一生続けられる仕事は何かと考えていた。だから、私は日本で教職課程の履修もしていなかったし。80年代で、大学を卒業しただけでは、何をして生きていこうって思ったときに、今のままの知識で食べて行くのは不可能って思ったから、まずは勉強して、力を溜めなければと思ったわ。

アメリカの大学を卒業したとき、一生ずっとやっていけるものがまだないと思った。日本で貯めたお金がまだ残っていたから、結婚してもしなくても、一生稼げる仕事は何かと考え、そのとき女性の職業としては教師だと思ったの。それで、大学院に進学を決心したの。

―でも、元々教えることが好きだったのですよね?

さぁ~? 私は若い頃ジャズ評論家になりたいと思っていたのよ! テレビのプロデューサーになりたいとかも思っていたし(笑)

―そうなんですか!? では、なぜ短大へ行きたいと思ったのですか?

高校にいるときに母が亡くなり、学校に行けなくなってしまって。人生で迷子になってしまったの。2、3ヶ月で復帰はできたけど、授業について行けなくなってしまった。国立コースにいたけど、もう難しいと判断し、やる気がなくなってしまっていたの。

親からは独立して働きたかったけど、私が勉強するのが好きだから勉強しなさいって、父が強く勧めてくれたの。でも、反抗期のためか、父の世話になるのは嫌だったから、短大だったらと思い、進んだの。

ノートルダムでの出会い

教育のレベルの高さに圧倒されたわ。半分以上はネイティブの先生の指導。カトリック系だからシスターがたくさん。フランス語もフランス語で。補助も英語だけとか、勉強しないと、もう、付いて行くことなんか不可能よね。今考えてみれば、国立行っていたら、また違う道を歩んでいたかもしれないから、とても良かったと思っているわ。

そこの学校にね、私の人生をサポートしてくれた女性がいたの。発音に関して物凄く厳しいシスター。すごく熱心に指導してくれたけどね。最初の授業から、私は彼女から厳しくお叱りを受けてね、今では良い思い出だわ。

彼女の熱心な諦めない指導のおかげで、彼女の授業を受けた人は、誰一人発音に困った人はいなかった。要するに、私のこの発音も、海外の生活で身に付けたものではなく、彼女がみっちり2年間私たちに時間を費やしてくれたおかげなの。最後まで絶対に諦めず、努力してくれたからね。本当に彼女との出会いは素晴らしいものだったと思うわ。

―すごいですね! 発音はやはり臨界期があります。大学からペラペラ話せるようなレベルにまで達するのは、なかなか難しいのに。

そう考えると、私は、今の学生たちとは違うのかな。アメリカにいったのも行きたかったからで、まさかこんな仕事するとは思ってなかったわ。貯めたお金がどんどんなくなり、とうとう0になった。Hungry精神はあったけど、自信はなかった。でも、なんとかやっていこうと思わせてくれた先生(シスター)達に出会えた。彼女たちは私の人生において大きな存在なの。

他のシスターはね、私が教師になったとき、「学校を最後にでる先生になりなさい」って言われたの。彼女たち自身がそうだったからでしょうね。言われた通りに最初は守ってた。「愛を実践する人になりなさい」とも言われた。私はその後、29歳で洗礼をいただいたの。信者であり教師であるという同じ立場になって、彼女たちの立場がもっとわかるようになった。でも足元にもおよばない。

私は彼女たちとの出会いがあったからこそ、今があるのだと思う。私に、特に飛び抜けた才能があったわけでもないし。うん。

「お前にないのは決断力だ!」

あとはね、私の外国人の友達の中に大人の黒人達がいたんだけど。彼らの影響が本当にあると思うの。公民権運動後、差別がなくなったようでもなくならない。2倍働いてやっと白人と同じぐらいの稼ぎっていう時代。日本人だった私は、お金もないし、才能もない、私はもうだめなの~って言っていたら、彼らは、「お金がないなら稼げば?」「才能がないなら磨け!」「お前にないのは決断力だ!」って言われたの。

なんか、衝撃だったよね。「確かに」って思って、今でもそれは大切にしています。今でも悩むことがあるけど、その頃母が亡くなったことで、人っていつか死ぬのだなって。今ある命も突然なくなってしまうこともある。そう考えながら、いろんなことに葛藤していたから、彼らの影響力は強かったんだと思う。

To be a better person

―では、最後に今目標にしていることを教えて下さい。

いい人間になりたい。

いい人間になりたい。いろんな経験をして、今はそう思う。若い頃は人に負けたくない!っていう気負った気持ちが大きかったかも。つまらないことだとは心で知っていたけど、これを起爆剤にしていかないと、生きて行けなかったわ。とにかく、前へ前へと進んできた。けれど、25歳になって落ち着いたときに、自分の中で、私は、「いつまで前へ前へ進まなくてはいけないの?」って、本当に辛くなった時期があったの。

中学校のころ仲良かった人とヨーロッパに旅行に行ったの。友だちが帰ったあとも、私は、ひとりで2週間ぐらい、いろんなところを巡っていたの。そこで立ち寄ったインスブルクの教会では、一日中泣いたわ。この頃から、生きるということを見つめていけるようになったの。

例えば、聖フランシスコの「平和の祈り」のなかに「慰められることよりも慰めること。理解されることよりも理解すること。愛されることよりも愛することができる私にしてほしい。」っていうところがあって。自分なりに変わって行きたいなと思ったの。

だってね、こういうこと考えていくと、世の中不条理なの。世の中には富を享受して幸せな人もいるのに、世界中では5歳になるまでに多くの、あまりに…子ども達が亡くなっていく。なぜ戦争で殺されていく人、綺麗な水を飲めず苦しんでいく子どもたちがいなくてはいけないの? 何が理由で、あの人たちはこうで、私はこうなのって考えたら答えがないの。

私に何かできることがあるのか、ないだろうかって、よく考えるの。生をいただいて、愛をいただいて、与えられた自分を、何の価値もない自分を、いただいたものを精一杯使って、何もない自分からいかに成長させていけるのだろうか。天からの贈り物として、自分をいただき、そしてまた、天に戻れればいいなって思っているのです。

その中で、たまたま私に与えられたタレントが子どもの先生になるというのであれば、一所懸命にやって、次の世代の子どもたちに伝わればよいかって思っています。本当に「大人しっかりしろよ!」って思う。こんな世の中を作っちゃって……。

でもね、Returneeたちが、もっと生きいきしていけるような世の中を広げていってほしいと私も思うわ。国外でいろいろな想いを持って生きてきたあなたたちが、英語を使って、まだ日本以外を知らない若者たちと一緒に、どんどん世界に出て行ってくれればと思うの。これからも頑張って行ってください。

ー長い時間ありがとうございました! 私もこれから先生を見習って頑張っていきたいと思います。

Notre Dame de Namur University :
http://www.ndnu.edu/about-us/
San Francisco State University :
http://www.sfsu.edu/
テンプル大学 :
http://www.tuj.ac.jp/
http://www.temple.edu/

インタビューアから一言

普段とてもお世話になっているゼミの教授に、改めてインタビューするお時間をいただきました。いつも明るく元気な先生の生き方を知り、大変驚きました。自分の甘さに恥ずかしくなり、また、大きな刺激を受け、頑張らなくてはいけないと思いました。努力すればきっといつか実る。教授のような、有言実行の素敵な人間を目指したいと思います。貴重なお時間を本当にありがとうございました。これからも、子どもたちのために頑張っていってください! 私たちもがんばります! 本当にありがとうございました。

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土橋美紀。1988年生まれ。長野県出身。小学3年から小6まで、アメリカのオレゴンに暮らし、高校3年間はアメリカのジョージア州で生活し、North View High School卒業。大学受験のため帰国し、青山学院大学文学部英米文学科に入学。現在3年に在学中。大学では、教職課程を専攻し、英語教育などについて勉学中。児童福祉ボランティア青山子ども会という部活に所属し、相模原と青山キャンパスの往復をしている日々。