海外生活体験者・社会人インタビューvol.89〜前編〜

interviewee_s_220_profile.jpg 古澤允悟さん。1984年生まれ。小学校3年生から高校2年生までの8年間を、アメリカ・オハイオ州で過ごす。高校2年の夏に帰国後、南山国際高等学校に編入、卒業。上智大学比較文化学部(現国際教養学部)比較文化学科に入学し、International Business & Economicsを専攻。現在、岡藤商事株式会社で海外ファンド&システムを担当。社会人4年目。

「あなた何言ってるの?」

―まずは古澤さんの海外経験について教えてください。

はい。私は小学3年生から高校2年生までアメリカのオハイオ州にいて、そこの現地校に通って、アメリカの普通の義務教育を受けて来ました。8年間ですね。父親の仕事の関係で行きました。

義務教育があちらだったので、あっという間に日本語を忘れて、ほとんど英語の生活でした。親に日本語で話していると、「あなた何言ってるの?」と、よく理解してもらえませんでした(笑)

―おうちでは日本語で喋っていたんですか?

一応喋っていたつもりです(笑) 帰国子女にありがちな、よく分からない日本語を喋ってました。

―小学校3年生で初めて海外に行かれて、最初はどうでしたか? 言葉はどうでした?
 
何も考えてなかったですね。言葉は分からないけど、普通に子どもたちと交じって遊んでいたら、気付けば英語が喋れるようになっていました。中学に上がる頃には、喋ることも考えることも、「アメリカン」になっていましたね。まぁ、それでもそれなりの苦労はあったのかなと。

―どういう面で苦労したと感じられましたか?

やっぱり、いじめはありましたね。オハイオ自体、北に行かないと日本人がいないんです。私は南の日本人が誰もいないところに引っ越したので、ESLの制度とか全くなくて、友だちのお母さんがボランティアで英語を教えてくれていました。

―私の兄が小2で初めて渡米したんですけど、女の子より大変なのかな?という印象を持っています。古澤さんはどのようにして馴染んでいきましたか? 何かきっかけだとか、関わっていたアクティビティはありましたか?

小学生の頃は、YMCAでシーズンごとにフットボール、野球、サッカーをやっていて、夏はもちろんサマーキャンプに行っていました。後はボーイスカウトにも入っていました。中学に上がったら、トランペットでジャズバンドにも参加して、フットボール、レスリングもやっていました。

―すごく多才でいらっしゃいますね!

まぁ、向こうはシーズンごとなので、全部できちゃうんですよね。そうしていたら、自然と友だちもできて、なんとかやっていってましたね。

―日本人の少ない地域だと、日本人学校はなかったんですか?

あったんですけど、課外活動が多すぎて、行けるのが3ヵ月に1回とかでした。学校に行くというよりは遊びに行くみたいな。通っていたとは言えないですね(笑) 日本語はドンドン忘れるし、そのうち漢字も読めなくなりました(笑)

自分が出来ることをやる&人任せにしない

―では、個々のアクティビティについてお伺いします。ボーイスカウトはどういうことをするんですか?

ボーイスカウトは、基本的に社会に貢献する活動だとか、キャンプに行って自然の中でどう生きて行くかとか、そういうことを学びます。火を扱うときのマナーだとか、ハマーを扱うときのルールだとかですね。テストもあって、ランク付けされていて、どんどんバッチを取っていくんです。社会で自分が置かれている立場を理解する場所ですね。

―日本にもありますけど、あまり馴染みのない活動ですよね。バンド活動はどうですか? 学校のイベントに参加されたりするんですか?

クラスの一環でコンサートバンドに入れるっていうのがあって、そこでトランペットを吹いていました。学校が定期的にコンサートを開いて、そこで演奏しました。夏はコミュニティ・カレッジのサマーバンドに入ってやっていました。

高校生になったら、もっと活躍の場が広がって、マーチングバンド、ジャズバンド、ショークワイアの音楽担当、バスケットボールの試合なんかで演奏しているヘッドバンド、あとはミュージカルの演奏を担当したりとか、色々やっていました。

―色々なopportunity があっていいですね! 大きな学校だったんですか?

そうですね、マーチングバンドだけで300人ほどいましたね。

―自分の海外生活で一番印象に残っていることは何ですか? 今になって思うことでも構いません。

そうですね~、スポーツもですし、音楽もですが、色々なこと経験出来てよかったな~と思っています。それで得たチームークの取り方だとか、自分のモチベーションの保ち方だとか、身についているものですね。ボーイスカウトからも、責任感、チームワークを学びました。その中で自分が置かれている立場を理解して、自分が出来ることをやる、人任せにしないってことが、海外生活で学んだ一番大きなことですね。

―海外に行かなかったら身に付かなかったことですか?

ん~、ならなかったかな~。ここまで強く自分を主張するとかって、なかったと思いますね。

指紋がなくなるくらい書きました

―高校2年生で日本に帰国されますね。日本の生活、日本語に慣れていくのは大変だったんじゃないですか?

運のいいことに、編入した南山国際高等学校は、私みたいに日本語のできない帰国子女、外国人しか受け入れていない学校なんです。インターでもないし、英語で授業をやっているわけでもないんですけどね。だから、高2の夏に帰ってきて、古典をやらされました(笑)

―触れたことがありません(笑)

火傷するので、やめておいた方がいいですね(笑) 行くのがイヤと思う学校ではなかったですね。みな同じこと経験してきている人間が集まっているので。中高とある学校で、1クラス30人×4くらいの学校です。

―そこから大学受験をされるんですね。帰国枠が使えたのでしょうけど、それでも日本語で論文書いたりしなければならなくて、大変だったんじゃないですか?

はい。日本に帰国した高2の夏に、東京にある集中泊まり込みの塾に行って、ひたすら論文書いて、漢字書いてって、指紋がなくなるくらい書きました(笑) それをやったから、受験するまでには、ある程度論文が何かっていうのを理解して臨みました。あとは、書類に海外でやっていた課外活動などのアピールをするところがあって、色々なことをやっていたので、それはよかったかなと思っています。

―大変な時期に帰国されましたよね。よかったと思いますか? アメリカの大学も考えられたと思うんですけど。

考えてました。NAVYにも入りたいと思っていて、まぁ、国籍上何か問題が起こるだろうとは思っていましたけど(笑)

―大学で再びアメリカに行くっていう選択肢もあったと思うんですけど?

そうですね。でも、日本人だから、日本で何らかの教育を受けて、日本語も勉強しなきゃなとは思っていたので。

―そう「アメリカ人」として考えたわけですね(笑)

完璧に「アメリカ人」でしたね(笑)

日本の文化にも触れたいっていう気持ちもあったので、日本に残って、でも帰国子女の多そうな学校を選びました。選んだといっても、何を選べばいいか、良く分からなかったですけど。親に相談したら、「上智の比較文化に行ったら? あんたみたいな子ばっかりよ」と言われて。

大学がランク付けされていることとか知らなかったので、「上智って何?」っていう感じでしたね。で、入ってみて、「あーこういうところなんだ」っていう感じなので、選んだとは言えないかもしれないです(苦笑)

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岡村美佳。1986年東京生まれ。4歳から8歳までの4年間をアメリカのニューヨーク・カリフォルニアで過ごし、日本に帰国。中学1年生のときに、今度はイギリス・ロンドンに渡り、5年間過ごす。Marymount International Schoolを卒業後、日本に帰国し、06年に東京大学理科Ⅱ類に入学。教養学部生命認知科学科を卒業後、東京大学総合文化研究科に進学し、現在修士1 年。大学では、酵母を使ってDNAの転写・組み換え機構について研究を行っている。