海外生活体験者・社会人インタビューvol.91〜前編〜

interviewee_s_226_profile.jpg 若林寛樹さん。島根県で生まれ、幼少時代は3歳まで神奈川、以後中学生まで広島で過ごす。中学生のときに、父の仕事の都合で、カナダのトロントに移る。高校卒業後、上智大学経済学部経済学科に入学。秋葉原のパソコンショップやパソコン雑誌の編集部で働いた後、学校を一度やめ、いくつかのベンチャーの立ち上げ、運営に関わる。その後、大手IT商社でシステム・インテグレータとして働いたのち、07年からCisco Systemsのネットワーク・コンサルティング・エンジニアとして働いている。

~トロントが変わる瞬間~

―カナダでの生活について教えてください。

一番思い出深いことは、そうですね。。。当時、僕がいた頃は、ちょうど香港の返還が迫っていた時期だったんですね。そのときに、香港から逃れてカナダに移住してきた人が、ものすごい数でいたんですよ。それこそ、何十万人?のレベルで。その膨大な数の移民の人たちが、街を変化させていく瞬間を見られたっていうのは、良い意味でも悪い意味でも、すごく思い出深いです。

なんて言うか、それだけの数の人がいっぺんに来ると、街をそのまま持って来ちゃうんですよね。文化だけじゃなく、テレビ局、新聞社、出版社、挙句の果てには、モールとかも。そのくらいのレベルで、大きなものを持って来る。

僕はトロントにいたんですけど、普通に白人が多い街が、突然中国色に変わるのは、本当に衝撃的でした。学校でも、毎日知らない顔の人が増えて行くくらいでしたしね(笑)

―現地の人は抵抗とかはあったんでしょうか?

あったみたいですよ。白人の人たち、特に、高級住宅街に住んでいる人たちは、あまりよく思っていなかったみたいで、もう少し人が少ないところに引っ越して行った人とかもいましたね。

あとは、NBAのチームができたときに、一悶着があったって聞きました。トロントのチームはラプターズっていう名前なんですけど、それが決まる前に投票があって、ドラゴンズになるか、ラプターズになるかっていう話があったらしいんですよ。ドラゴンズっていうのは、完全に中国のものじゃないですか。そういうところで、揉めたっていう話は聞きます。

―じゃあ、トロントにはチャイナタウンのようなものが出来上がっているんですか?

チャイナタウンとは、ちょっと違うんですよね。チャイナタウンって、少ない人たちが集まって、地元の人たちとコーディネイトしながら、少しずつ街としての一部分を担うじゃないですか。小さいコミュニティを作りながら、地元の人たちと融合して行くっていう形だと思うんですけど、彼らは街をもって来ているんで、融合というよりは競合というか。一つの異質な街が突然出来上がるような感じに僕は思いました。

で、当然、香港からカナダに移住して来る人っていうのは、お金をもっているわけなんですよ。だから、やっぱり金持ちがいっぱい来たっていうのを、よく思わない人たちが大勢いたのも事実で、僕のときはよくイラン人と中国人がぶつかっていました。学校でも、それこそ発砲騒ぎとか、駐車場で車が燃えているとかありましたね(笑)

そうやって、香港返還という事件の前後で、街がガラリと変わっていく様子を見られたのは大きかったですね。すごく違和感に満ちた中学高校生活でした。

―若林さんは、どこらへんの立ち位置にいらっしゃったんですか?

僕のときは、日本人もそこそこいたのですが、日本人とはあまり群れなかったんですよ。中国人がやっぱり多かったので、中国人との付き合いはあったんですけど、ちょっと引いた位置にいましたね。大多数に飲み込まれるのは好きじゃなかったので、引いた位置で見ながら、仲良くするやつとは仲良くしていました。反対に、香港じゃなくて、台湾とか韓国とか、そういうマイノリティの移民と仲良くしていましたね。

―カナダでの日本人の印象っていうのは、どういうものなんでしょうか?

ド田舎にいくとやっぱり変な目で見られてしまいますけど、中規模から大規模の都市に行くと、大体良く接してくれます。中国人だと、あまりいい印象を持たれないんですけど、日本人だとTSUNAMIとかNINJAとか、そういう単語を並べて、気さくに仲良くしてくれた感じがしますね。基本的に、「日本人だから」っていうので良くしてもらったことは、あるんじゃないかなって思います。

―アメリカだと、やっぱり戦争のことがあるので、授業でパールハーバーのことを勉強するときとかは、ものすごく居心地が悪かったりしたんですけど、カナダだとそこはどうなんですか?

カナダは、どっちかというと、歴史として淡々と見ているだけという感じだと思います。ただ、中国の人からは軒並み「お前らがやったことは忘れない」って言われたのは、今でもすごく覚えています。反対に、インドネシアとかタイとかの人には、すごく感謝されました。

~波乱の大学時代~

―大学生活はどうでしたか?

もっぱらアルバイトですね。ひたすらコンピュータ関係の仕事をやっていました。まず、秋葉原のパソコンショップで、コンピュータをひたすら売ったり作ったりする仕事をやって、それから雑誌の編集部に行って、その後に学校でコンピュータのことを教えるようなことを少しやって、その後は、とあるベンチャーの立ち上げのお手伝いをしていました。その辺で、もう学校に全然いかなくなっていたので、そこで一回大学をやめました。

―コンピュータに興味をもったきっかけは何だったんですか?

もともとカナダにいたときから、音楽をやっていたのですが、あるときドラムの子がいなかったときに、先生がパソコンでドラムを流し始めたんです。いわゆるMIDIってやつですね。「こんなのもあるんだ」って興味を持って、それからは耳コピみたいのをひたすらやって、聴いた曲をコンピュータの中に落とすっていうことをよくやっていました。

そこで、「なんでこのコンピュータは音が出るんだ?」っていうことが気になって、一回パソコンを開けて、壊しちゃったんですよ。もちろん親父にしばかれたんですけど、その後修理にもっていったら、直ったんです。「なんで、自分がやったら壊れるものが、そのお店に持っていったら直るんだろう」っていうところに興味を持ったのが、この道に足をずぶずぶと踏み入れた第一歩です(笑)

―中退することに関しては、迷いはなかったんですか?

いや、ありましたよ、やっぱり(笑) 僕、中退したあとに、「戻ってこいよ」って先生に言ってもらって、戻ったんですよ。それで、また卒業しようとしたんですけど、いろいろあって、結局また学校出ることになりました。卒業まであと1単位っていうところで、学校を出るはめになっちゃったんで、すごく悔いは残るんですよ。

けど、まぁ今となっては、結果オーライかなと。すーっと、そのまま大学を卒業できていれば、どんなに楽だったかなとは思います。だけど反対に、すぐ卒業できなかったことに対するコンプレックスというか、反骨精神が、自分の今の原動力にもなっていますし、その道を通ったことによって得られた人脈がなければ、今の自分はないです。そう思うと、迷いとかもあれど、取ってきたアクションが結果的にはよかったのかなと。

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越島健介。1989年ロサンゼルス生まれ。2歳から9歳まで神奈川県で過ごした後、再び渡米。Scarsdale High Schoolを卒業したのち、帰国。早稲田大学先進理工学部に進学し、現在3年生。大学での最初の2年間は、学校の課題やレポートに追われながらも、音楽活動に明け暮れ、COLLO SOUND ROOTSというバンドでキーボードを担当するが、3年生になりバンドは解散。音楽は趣味として続けている。