海外生活体験者・学生インタビューvol.97

interviewee_s_153_profile.jpg 岡村美佳さん。1986年東京生まれ。4歳から8歳までの4年間をアメリカのニューヨーク・カリフォルニアで過ごし、日本に帰国。中学1年生のときに、今度はイギリス・ロンドンに渡り、5年間過ごす。Marymount International Schoolを卒業後、日本に帰国し、06年に東京大学理科Ⅱ類に入学。教養学部生命認知科学科を卒業後、東京大学総合文化研究科に進学し、現在修士1年。大学では、酵母を使ってDNAの転写・組み換え機構について研究を行っている。

「美佳~」と呼んでいる声が聞こえて

―それでは早速、岡村さんの海外生活体験について教えてください。

私は幼稚園から小学校3年生までの4年間をアメリカで、中1から高3の㈤年間をイギリスで過ごしました。計9年ですね。

―幼稚園でアメリカに引っ越したときのことを覚えていますか?

はい。第一印象は「アメリカ人は大きい!」ってことでしたね。父は先にニューヨークに渡っていて、母と兄、私が夏休みになって合流したとき、空港に迎えに来てくれました。でも、ゲートを出ても全然見当たらなくて、3人で、父が間違えたかと、とても心配しました。

そうしたら、「美佳~」と呼んでいる声が聞こえて、ちょっと視線を下げたところに父を発見しました。周りは縦にも横にも大きい黒人ばっかりで、JFKに着いて早々「異国に来た」と実感したことを覚えています。でも、それに対して抵抗があったり、委縮したりという思いはなかったですね。まぁ、4歳だったからでしょうか。

周りのものをすべて吸収していた

ー学校生活について教えてください。最初は大変でしたか?

ニューヨークにはKindergartenの1年間だけいました。Ryeというコネチカットに近い市のMilton Schoolというところに通っていて、日本人は多かったです。ESLのクラスを日本人のグループで受けていたこともあって、学校ではほとんど日本人とずっと一緒にいたと思います。

でも、1年生から西海岸カリフォルニアに移ったんですけど、そのときにはもう英語が喋っていたんですよ。同じ学年に日本人の女の子がいなかったこともあって、すぐにアメリカ人の友だちも出来たし、苦労した覚えはありません。子供ってすごいですよね。本当に周りのものをすべて吸収していたんだと思います。

幼稚園のときに、クラスには日本人が7人もいたんですけど、一人だけアメリカ育ちで英語の喋れる子がいたんです。私はその子がす~っごく羨ましかったんですよね(笑) 「いいな~」「かっこいいな~」って、いつも思っていました。英語が喋れるようになりたいという気持ちは強く持っていたと思います。

人生を大きく変える出会い

―1年生からはカリフォルニアに引っ越されたんですね。ニューヨークとはまた違うアメリカですよね。

そうですね。カリフォルニアは今でも本当に大好きです。特に、イギリスを経験して、天気が人の気持ちを左右するというのを、身をもって実感しますね。1年中短パンにTシャツで、自然と人は明るいですよ。1年生のゼロからのスタートだったというのもあって、すんなり馴染めたと思いますし、本当に楽しい思い出ばっかりです。

―カリフォルニア時代の小学校の思い出は?

そうですね、私にとってカリフォルニアは人生を大きく変える出会いがあった土地でもあります。

―それはどなたとの出会いですか?

今でもとても尊敬していて、アメリカに行ったときには、いつもレッスンをしていただくピアノの先生です。

私は高校まで結構本格的にピアノをやっていたんです。最初は普通に近所の先生に習い始めて、2年生のときまでは、まぁまぁちょっとうまいかなくらいで、母が一所懸命だっただけだったんですけど、2年生の終わりの夏休みに知り合いのピアノの発表会を聴きに行ったんです。そのとき、「すごいな~」「私もこんなふうに弾けるようになりたい」って思ったことを、今でも覚えています。同い年の子も、上のお兄さんお姉さんも、みな本当に上手で、自分とは違うって思いましたね(笑) 自分からお母さんに、この先生につきたいって言ったそうです。

この先生との出会いがきっかけでピアノを本格的にやりだしました。日本人の先生で、姉妹でピアノを教えていらっしゃる方なんですけど、ピアノの面だけでなく、人間的にもとても素晴らしい方々で、「音」を「楽」しむというきっかけを作ってくださいました。残念ながら、カリフォルニアでの最後の1年しかついていなかったんですけど、それからも色々な機会にレッスンしていただいて、本当にお世話になりました。

「ピアノといえば美佳」というアイデンティティ

―すごいですね。コンクールにも出場なさっていたそうですね。

はい。初めて出たのが3年生、アメリカでの最後の夏で、4位に入賞しました。兄がサッカー、野球、水泳と色々なスポーツをやっていて、トロフィーをたくさん持っていたのが羨ましくて、これが私の初めてのトロフィーでした(笑)

中学のときの夏休みは、毎年このアメリカのコンクールに向けて頑張っていました。6月後半から1ヶ月半ほど合宿状態で、先生のお宅に泊めていただいて、朝レッスンして、練習して、また夕方レッスンという生活でしたね。ピアノ以外のことはほとんどやれない状況に追い込まれれば、練習嫌いな私でも1日7時間も8時間もやるものです(笑)

やっぱり、何か目標に向かってやるっていうことは、大事ですよね。音楽に完璧なんてないから、突き詰めていくのはもちろんなんですけど、何かに焦点を定めて完成させるというのは、必要なんだと思います。

―それからずっと、高校生までピアノ弾かれていたということですけど、どんな生活をしていましたか?

とにかくピアノ中心の生活ですね。日本では桐朋の音楽教室に通っていて、アメリカの「音」を「楽」しむとはちょっと違う、スパルタ音楽教育を受けていました(笑) 試験や発表会近くに学校の林間学校があったりすると、母が紙鍵盤を作ってそれを持って行かされて、自由時間に練習したり、レッスンやコンクールのために、学校を早退したり、休んだりもしていました。

―学校を休んでたんですか!?

小中は日本の付属校でしたし、イギリスの中高も、特に受験校でもなく、のんびりやっていたので、そんな大ごととは思わなかったですけど(笑)

ピアノに限らず、何かを一つ極めるっていうことが、親の教えなんだと思います。一つ自分のアイデンティティと言えるものを確立したという事実と、何かを成し遂げる姿勢っていうのは、何をするにしても私の糧となって役に立っていると思っています。

アメリカ、日本、イギリスって、文化も風土も全然違って、そうすると音楽とかアートに対する見方も違うので、色々なところで学べたのは本当にラッキーだったな~と思いますね。

やれなかったバスケットにはまる

―そこから音楽の方向に行こうとは思わなかったんですか?

親は行って欲しかったらしいですけど、私は小さいときからずっと医者になりたいと思っていました。やっぱり人の役に立つ仕事ということと、医学にもすごく興味もありました。だから、高校の最後の2年間は勉強もちゃんとしなきゃということで、ピアノは一区切りつけました。

その代わり、それまであまりやれなかったスポーツに熱中しました。指に良くないということで禁じられてきたバスケットボールも始めました。ロンドンの学校では、シーズンスポーツといって、学期ごとに違うスポーツチームに参加できるんです。私はバドミントン、バレーボールに始まり、バスケットボール、サッカーなど、出来るすべてのチームに参加しました。元々、運動神経は良かったので、どのチームにも合格して参加させてもらいました。

12年生になると、ある程度勉強が忙しくなってきて、スポーツをやる人はほとんどいないんですけれども、私は最終試験の日まで、ずっとやっていました(笑) ピアノは、弦楽器や管楽器と違って、アンサンブルの機会は少なくて、ほとんど一人で演奏してきたので、やっぱりグループで何かをやるっていうのが楽しくてハマったのもあると思いますね。

最後には全部でキャプテンも務めたんですけれども、インターナショナル・スクールだったので、全員が英語が堪能なわけではなかったし、肌の色、髪の色も違って、結構大変でしたね。練習に遅刻しないとか、ガムを噛まないとか、日本の学校の部活では当たり前過ぎて、口にもしないようなことのコンセンサスが取れてないんですよね(笑)

―大変そうですね~。キャプテンとしてどういうことに気を使いましたか?

私が一番に練習に行くところから始めました。キャプテンでも、一番うまかったわけではないし、背は低い小さいし。だから、12年生の忙しい中、積極的に朝練もしました。

あとはコミュニケーションですね。とにかく仲良くなって、チームの結束力を上げる。それがポイントだったと思います。学年隔たりなく結成されてフラッとなのはいいんですけど、普段会う機会は少ないメンバーなので、あまり知らないんですよね。でも、バスケに関していえば、遠征の甲斐もあって、すごく仲良くなって、トーナメントで準優勝っていう成績も残したんです!

―おめでとうございます! 高校生活はスポーツと勉強に集中した生活を送られたわけですね。

そうですね。スポーツに関しては、試合で授業を休んだり、1週間モロッコに遠征に行ったりっていうのがあって、12年生のすることじゃないと、どの先生にも反対されましたね。でも、結局辞められず(笑)、最後までやって、成績も結構よかったんです。本当に後悔のない高校生活を送ったと思っています。

Atf1というタンパク質について研究

―そこから日本に帰ってきて受験をして、東大に入学されますね。医学部ではないですけど?

医学部受験には失敗しました(笑) 運よく東大の理IIに受かり、基礎研究という方面からは、より多くの命が救えるのではと思って、今の分野を選びました。

―現在、東大の大学院では何を勉強なさっているのですか?

専門は分子細胞生物学です。といっても広いですし、非常に分かりにくいですよね。細胞一つ一つに、DNAという形で、父親由来のものと母親由来のものが入り混じった遺伝情報が入っています。遺伝情報には様々なタンパク質を発現するための情報が入っていて、あるタンパクをいつ、どこで、どれくらい発現するかは、とても厳密に制御されています。私はその過程で働くAtf1というタンパク質について研究をしています。

私の研究室では、主に酵母を使って研究をしているのですが、このAtf1というタンパク質は様々な生き物に存在するタンパクで、ヒトにもあるんです。タンパク質がどうやって制御されているかが解明されれば、例えば、アレルギーで痒みを引き起こすタンパク質を、痒みが出て来てから止めるのではなく、そもそもその痒み物質が作られないような医療というのが可能になるかもしれなせん。いわゆるオーダーメイド医療の一種です。ヒトゲノムも解読がされていますので、薬を違う次元で働かせて、新たな医療ということも考えられるわけです。

これが本当に実現するかどうかっていうのは分からないし、役に立つという保障もないんですけど、でもやらなきゃいけないことなんですよね。それをちゃんと蓮舫議員に分かってほしいですね(笑)

アクティブに常に上を目指す

―大学時代は研究以外に取り組まれたことはありますか?

研究は4年生に入ってからなので、学部時代は全然違うことをやっていました。

学部時代の前半はADEO Japanというアフリカ系NGOでの活動を一所懸命やっていましたね。HIV、エイズに対して、アフリカと共通、共有する問題意識を持っていて、若者目線で日本のユースに意識喚起するということをやってきました。

日本は先進国の中で唯一感染率が増加傾向にあって、特に若者の間で広まっています。正しい知識がないという意味で、若者は脆弱な集団です。私たちは自分たちにもありうる問題として意識して欲しいと思っています。

保健の先生に言われても、あんまり浸透しなくて、区や市の保健所から依頼を受けて、高校の出張授業に行ったりもします。あとは、クラブイベントとか気軽な形でHIV・エイズについて考えてもらえるようなものを催したりします。

この団体との出会いは、私の大学時代における一番貴重な出会いだと思っていて、本当に賢い人が多いし、色々な志を持った人がいるんです。入った当初はみな学生だったんですけど、今ではほとんどが社会人で、「若者」というには怪しい感じではあるんですけど(笑) でも、そうやって社会人になっても活動していて、みな「何かしたい」って思っている人たちなんですよね。

今、ちょっと組織改革をしていて、そろそろ新たなスタートを切ろうとしているんですけど、それも社会人の人たちが忙しい中夜と週末を使って仕事してくれているんですよね。いつもみなで「日本を変えるような大きいことしたいよね」って言ってるんです(笑)

やっぱり常に上を目指すっていうか、じっとしていないでアクティブにいたいですね。

―じゃ、岡村さんも就職されてからも、アクティブに活動なさる予定ですか?

そのつもりです。逆に大学院生活よりは、週末とかで自由に使える時間が増えるのかと期待しています!

―これから就活で大変だと思いますが、がんばってください! 今日はどうもありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました!

インタビューアから一言

岡村さんは一見大人しそうな印象を受けますが、とても芯の強い女性でした。様々なバックグラウンドや趣味を持つ彼女の活躍は、インタビューをしていてもとても楽しかったし、僕自身がいい刺激を受けました。しっかりとした意志を持ち、やりたいことはやり抜き、可能性をものにしていく。そんな彼女は、社会に出てからもなにかやってくれると思います。今後の活躍を期待しています!
畑悠歩。1988年神戸生まれ。14歳から18歳までイギリスのロンドンに滞在。St. John’s Leatherheadを卒業後、帰国する。予備校で受験勉強をした後、慶應義塾大学に入学。現在、経済学部3年に在籍中。大学では、金融系のゼミで国際 経済と金融を学びつつ、学園祭の実行委員会にも所属している。