海外生活体験者・社会人インタビューvol.95〜前編〜

interviewee_s_233_profile.jpg 土屋淳さん。81年に東京大学大学院工学部工業化学科博士課程を修了後、84年までシカゴ・アルゴンヌ国立研究所、ローレンス・バークレー国立研究所にて材料科学の研究に携わる。帰国後、三菱化学の研究所に中途入社し、89年から00年まで、アメリカにおける三菱化学のマーケティングビジネスに関わり、三菱化学が買収したアメリカの会社Verbatimのマネージメントにも携わる。00年に帰国後、三菱化学の記録材料事業部、経営企画部に所属し、02年に退社。その後4年間、アメリカの会社ローム&ハ―スの日本法人に入社し、07年からは独ヘレウス株式会社の日本法人に入社し、現在、日本法人・代表取締役社長を務める。

―今日はインタビューよろしくお願い致します!

よろしくお願いします。

アメリカにはあまり違和感がなかった

―大学時代は、将来について何を考えていらっしゃいましたか?

将来について全く考えていませんでしたね。大学の先生になるのかなと思いましたが、研究をしているうちに、ビジネスの方が面白いと感じました。研究し続けるのは正直無理だと思いました。そのときに、ちょうど海外でのビジネスが回ってきましたしね。妻もアメリカに抵抗はなかったこともありました。

そこで感じたのは、5年単位でキャリアを考えると良いということです。とりあえず5年我慢して、違うなと思ったら他のことに挑戦してみる。そして、今の行動は、自分に付加価値が付くかどうかという視点で、自由に考えればいいと思いますね。

―アメリカでの生活はいかがでしたか?

アメリカはあまり違和感なかったかな。住んでいた頃は、子供もアメリカが好きだったし、妻も積極的に学校のボランティアをしていましたしね。それに、家族と過ごす時間が増えて、非常に良かったかな。そういう面では自由だと思いましたね。ハワイだったらずっと住んでもいいですね(笑)

海外に初めて行ったのは大学院を卒業した後です。当時の先生の紹介で、アメリカのシカゴの研究所に材料科学の研究をしに行きました。ローレンス・バークレー国立研究所に移動し、アカデミックな研究ばかりしていました。その後、ちょうど大学時代の同期が三菱化学の人事部にいて、紹介をもらって中途採用という形で入社しました。

日本・アメリカ・ヨーロッパの企業を経営

―三菱化学ではどのような仕事をなさっていたのですか?

帰国してからは、三菱化学の横浜の研究所で5年間ぐらい働いていて、今三菱化学で有名な光ディスクや、超電導の研究などをしていました。あとは、テクニカル・アタッシェとして、海外の研究所や大学に行って、将来の研究の芽を探すといこともしていました。

89年に三菱の光ディスクが商品化したので、それを海外で売ろうということで、それまでは研究をしていましたが、180度転換して、米国にマーケティングビジネスをしに行きました。それから、90年にVerbatimっていう会社を買収して、そこの光ディスク技術などを中心にマーケティングをしたり、三菱化学アメリカの組織内で、記録材料のソフトウェアに関する社内ベンチャーとして、色々な事業展開をさせていただいたりしました。それから、Verbatimが経営不振になっていたので、ノースカロライナ州にある本社に単身で乗り込み、リストラや建て直しのマネージメントを担当しました。

―そして、その後外資に転職なさるのですよね?

3年間、その仕事に取り組んだ後、三菱化学の本社に戻ってきて、記録材料事業部や経営企画で働きました。そして、02年に三菱を辞めて、現在ダウケミカルに買収されているローム&ハ―スというアメリカの会社で5年間働きました。そして、2007年からヘレウスという会社にいます。ということで、会社のマネージメントと言えば、97年からやっています。

まずVerbatimというアメリカの会社を、我々日本人が親会社として経営しました。そして、02年からはローム&ハ―スというアメリカの会社の日本法人の経営をして、今は貴金属材料を中心としたビジネスをしているドイツの会社の日本法人を経営しています。つまり、日本の会社、アメリカの会社、欧州の会社の経営をしました。なかなかそういう人はいないと思いますね。あとは南アメリカとアフリカにいけば転職オリンピックですね(笑)

国によるマネージメントの違い

―異なる国籍の会社を経営する上で難しかったことはありましたか?

一番難しいと思ったのは、意思疎通でしたね。やはり、アメリカ人にはアメリカ人の考えがあるし、ドイツ人はドイツ人の考えがある。そして、経営側から指示をするときは、どうしても「上から目線」になってしまう。そのような指示を、被雇用者側のアメリカ人は敏感に感じ取ってしまう。そのため、何度も打ち合わせをやったり、一緒にお酒を飲んだり、上手くやっていく必要があった。海外で事業やるときには、組織内に様々な国籍の社員がいるから、必ずしも一律的なことを提言できませんでしたね。とにかく「上から目線」を持たずに、マネージメントを行うことが重要だと思いました。

また、日本人の手でレイオフを外国企業で行うということは、彼らの労働慣習もよく理解していなかったし、決断をしていくのがとても難しかった。プロの人事部もいたけども、やはり決断するのは我々日本人でしたからね。

ほとんどの経営上のトラブルというのは、お互いが理解していないということから始まります。例えば、三菱化学もそうでしたけど、細かい説明をしなくても、上司がモノを言えば社員の人は言うことを聞いてくれます。しかし、例えばアメリカの会社の場合は、リストラをする際に、レイオフをするほど会社の業績が良くないなら、クビを切られる前に社員は辞めてしまいます。アメリカは人材雇用の流動性が高いので、レイオフをするなら突然しなければならない。海外の企業では、そういう一つ一つの細かいマネージメントを学習していく必要がありました。

現在、私の会社では、海外の企業を経営した経験を持つ人を採用するときがあります。そのときに、その人の経営能力を知るためには、「あなたは何人解雇したことがありますか?」と聞くことも参考になります。経験でしか分からないことですから。もちろんレイオフをすることは非常に辛いことですけどね。

常にfairnessを大切にする

―上手く経営をする上で、大切にしようと思ったことはありますか?

常に「公平さ」を大切にしています。どの会社でもそうですが、特にアメリカの会社では、非常にフェアに社員を扱わなければならない。アメリカでは人種や性別の差別に対して厳しいだけでなく、定年制度もないので、年齢差別もできません。例えば、「あなたは年取ったからやめなさい」とも言えないので、ある仕事のポジションに相応しいのであれば何歳でも構わないし、雇用し続けなければなりません。とは言っても、アメリカの人たちは、大体60歳を過ぎたらセカンドライフを考えるので、蓄えがあればもう仕事を辞めてしまいますけどね。

アメリカでは30歳から出世競争が始まっています。昇進するスピードが優秀な人ほど早いシステムになっています。その点は日本とは全く違います。日本もそういうところを変えていかないと、これから難しいと思いますね。

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吉江奏太。1989年生まれ。小学6年生から高校卒業まで米国カリフォルニア州サンノゼ、サンタバーバラに滞在。Dos Pueblos High Schoolに通う。高校ではバスケ部に所属し、州大会CIFに出場。高校卒業後、日本に帰国し、一橋大学経済学部に入学。現在4年に在籍。大学では開発金融を専攻し、バスケ・サークル代表を務める。国立バスケットボール・リーグ2010主催者。