海外生活体験者・学生インタビューvol.115〜前編〜

interviewees_s_114_profile.jpg 土橋美紀さん。1988年生まれ。長野県出身。小学3年から小6まで、アメリカのオレゴンに暮らし、高校3年間はアメリカのジョージア州で生活し、North View High School卒業。大学受験のため帰国し、青山学院大学文学部英米文学科に入学。現在4年に在学中。大学では、教職課程を専攻し、英語教育などについて勉学中。児童福祉ボランティア青山子ども会という部活に所属し、相模原と青山キャンパスの往復をしている日々。

波乱万丈の人生スタート

―子供の頃、楽しかったと記憶に残っていることを教えてください。

難しいですねぇ。。。出身は長野ですが、5歳まで病院で過ごしていたので、楽しかったことは、あまり記憶にありません。長野の総合病院では対応できなかったため、東京の大学病に搬送されたのです。それに伴い、両親も住居を神奈川に移し、そこから私たちの生活は幕を開けました。

数少ないですが、楽しい思い出もありますよ。幼稚園の頃、友だちと一緒に遊んだことでしょうか。家に遊びに行って、泥遊びやおままごととかよくしていました。病気をしていたため体が小さく、どこの子の妹さん?と思われていたみたいです。

―大変でしたね。。。

大変だったのは、母だと思いますけどね。でも、私の体は必死に頑張っていたんだと思います。

―小学校にあがってからは、何か変わりましたか?

教科書をたくさん入れたランドセルを背負い学校へ通うのは大変でした。体が小さかったので、ランドセル選びが大変で(笑) でも、人一倍元気な子でしたよ。よくいる「大きくなったらケーキ屋さんになりたいの!」みたいな感じの子でした。

小学校3年生の春に、父の仕事でアメリカへ・オレゴン州へ移りました。小学校2年生という、臨界期ぎりぎりに渡米したことが幸いし、最初は大変だったものの、言語習得には困らなかったと思います。母親曰く、授業参観に行った日には、自分の机の上で紙人形で遊ぶというマイワールドが構築されていたらしいですが(笑)

きっと耳を鳴らしていたのでしょうね。これは「サイレント・ピリオド」と言われます。言語習得をする前に子どもが行う、ほぼ聞くことしか行わない期間があるんですね。楽観的な性格もあり、どうしてしゃべれないのだろうと落ち込むこともなく、自信過剰で毎日を送っていたのを覚えています。周りの先生や友だちに恵まれていました。

―苦にはならなかったんですか?

そうかもしれませんね。好奇心旺盛で、とにかく「しゃべりたい!」「話がしたい!」「仲間に入れてほしい!」という意識が高かったですね。最初の1年はクラスに日本人がいましたが、先生が敢えてクラスを分けてくれたからこそ、英語の基礎力をきちんと習得できたのだと思います。

―夢中になっていたことや嬉しかったことは?

夢中になったことはアメリカで通っていた現地校の友だちと遊ぶこと! 基本的に、いろんな人とおしゃべりをするのが好きなのです。嬉しかったことは、現地の中学校に進学できたことです。3ヵ月しか通えなかったのですが、とても貴重な経験をしました。それは「人の役に立つこと」。英語を教わってきた立場だったのが、渡米してまもない日本人が2人入ってきたのです。今度は教える立場になりました。

早朝補講の常連さんになる

―小学校時代は楽しく過ごされていたんですね。では、中学校はどうでした?

日本に帰国して、中高一貫の女子高に入学しました。唯一受験したところだったのですが、無事合格。帰国直後に帰国子女枠で受けたことが幸運だったと思います。英語は出来ましたから。先日当時の先生に聞いたら、合格基準はやはり点数だそうです

入学後、吹奏楽部に入ってフルートを演奏しました。アメリカで始めたことが日本で活きたのですが、初めて先輩・後輩という上下関係、日本の縦社会の現実を思い知りました。とても厳しかったので、何人もやめていってしまって。私もそのひとりですが。

―厳しかったからやめてしまったのですか?

それは学業を優先したかったから。やはり小学校3年生から海外に行っていたことがすごいハンディで、私は通常の授業で行われているテストでも点を取ることができなかったんです。小学時代はまともに勉強したこともなかったので、1コマ90分集中力も持続できない状況でした。

でも、学校がすごい面倒見よく、おバカちゃん用(笑)に補講をバンバン開いてくれて。国語に数学、帰国子女は必須のTOEFL講座を毎週受けさせられていて、練習が命の部活に顔を出せる日が週1になってしまいました。私自身学業に専念したかったこともあり、先輩たちの公演の足を引っ張ることはできないと思って決断しました。

―なるほど。残念に思いませんでしたか?

やはり、部活の先輩たちと一緒に演奏会に出られなかったことは残念でした。でも、踏み切れたことで得たものも大きかったと思います。学業の面で言えば、自分の無知と集中力の欠如を痛感しました。数学の章末テストでは、80点がボーダーライン。この点数に届くまで、先生は毎日朝早く来て、生徒のために追試を作ってくれるんですい。私は常連さんになってしまっていて、先生に多大な迷惑をかけていたと思います。でも、そのおかげで私は数学の力を身につけることができたし、数学を好きになれました。

素晴らしい仲間と先生に恵まれた

―何か印象深い出来事はありましたか?

2つあります。中学3年生の時、体育祭の用具係を務めたことです。当日、用具を配置したり、ポールを移動したり、体育祭に関わることならなんでも手伝うのが仕事。集まりも頻繁に行われ、上下関係も厳しいなか、「体育祭を必ず成功させる!」という一つの目標に向かって、みんなで力を合わせて頑張りました。チームで1つの目標に向かって、それを成し遂げることで、自分も成長したと思います。

―ものすごく達成感を味わうことができたんですね。

そうです! 2つ目は卒業。私は昔から転勤族?なので、3年以上同じ場所に居座ったことがなかったんです。大事な仲間と試練を乗り越え、無事卒業することができたことを、私は誰よりも喜びに浸り、とても嬉しかったのを覚えています。自分の成績をあげられたのも、みんなに助けられ、素晴らしい先生に恵まれたということ。私の一生の宝物です。

勉強と言っても過言ではない(笑)

―高校はどのような感じだったのでしょうか?


中学受験をしたときに、中高一貫校に進学しました。ですが、中学を卒業した頃、父の仕事で渡米が決まってしまいました。私の高校時代の思い出はアメリカにあります。

打ち込んだことは、勉強と言っても過言ではないかも(笑) 幼い頃に米国にいても、4年間日本にいたことには変わりなく、そこのギャップは大きかったんですね。英語自体には、全く問題はなかったのですが、授業科目を履修して単位を取得するのは正直大変でした。

受身の授業なら聞くことに集中するだけでよかったのですが、プレゼンや発表がお得意なアメリカでは、そう簡単に行きません。私の脳内にある英語セクションを引っ張ってくるまで時間がかかりました。授業についていき、先生やクラスメートと人間関係を構築するのでやっとという感じ。

一番時間をかけたのは、宿題。最初の1年は、近所のお兄さんを家庭教師として雇ってばかりで、親には本当に申し訳なかったです。当時は、私の脳内では日本語が強かったので、生物や化学を勉強するときは、一度日本語に訳して理解し、暗記をしていました。でも、頑張ったかいもあって、高2あたりからは家庭教師もいらなくなり、フランス語など第3言語を勉強する機会もあり、楽しく勉強に打ち込んでいたと思います。よく友だちとカフェで勉強してましたね。

―勉強以外はどうでしたか?

選択履修科目としてバンドを選択し、中学時代に吹いていたフルートの練習に励み、音楽にも打ち込みました。また、毎週土曜日に通っていた補習校を卒業してからは、ボランティアとして先生たちの補佐役を務めていました。とてもよい経験になりました。

高校では、Kaleidescopeというボランティアサークルに所属していました。多民族が集まり、いろんな文化交流について学ぶ団体です。「国際交流ナイト」という学校行事では、サークルの生徒がいろんな出店をする中、私たちも日本を代表して展示を行いました。日本の学校教育や伝統的な遊び、習字などを紹介し、消しゴムで作成するゴム印なども作りました。また、母の着物を借りて日本食を提供し、接客も行いました。

―心残りだったことはありますか?

帰国することしか念頭になかったことですね。日本の高校を中退し渡米したことが、当時の私にはとても悔しいことだったので、アメリカに残るという選択肢はどこにもありませんでした。もっと勉強して、アメリカの大学へも、胸を張って出願するべきでした。

―やっと義務教育が終わりましたね(笑) まだまだですよ!

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interviewee_s_156_profile.jpg 大塚清輔。1989年生まれ。東京都出身。外交官である父に同伴して、2歳から18歳まで、スコットランド、タイ、アメリカ(ニューヨークとマサチューセッツ)、スリラン カ、スウェーデンにそれぞれ約3年間ずつ滞在。日本の大学を受験しようと帰国。中央大学に入学し、法学部国際企業関係法学科4年に在籍。国際交流学生団体 The Asian Law Students’ Association(和名:アジア法学生協会)に入会し、活動中。8歳からスコットランドの伝統楽器であるバグパイプを続けており、各種イベントで公演している。