海外生活体験者・学生インタビューvol.160

interviewees_g_135_2_profile.jpg 稲葉省吾さん。1990年神奈川県の田舎生まれ。小学校5年生のときにアメリカのニュージャージー州に引っ越し、7年8ヶ月ほど滞在。Parsippany Hills High Schoolを卒業後、日本に帰国。2009年に上智大学国際教養学部に合格し、現在3年に在学。国際教養学部の制度を活用して、史学や政治学など複数の科目を学んでいる。RTN Project上智支部代表。

生まれ育ったこのムラで死ぬ!

―アメリカに行くまでの小学校時代について教えて下さい。

私は神奈川の典型的な田舎に生まれたんですが、歩いて5分もしないところに田んぼやハクビシンが出る林がある環境でした。そんな場所で幼少期を過ごせば、きっとスポーツ好きなやんちゃな男の子が育つんでしょうけど、私はまるっきり反対に育ってしまいました(笑) Nintendoでばっかり遊んでいました。アウトドアで、今も記憶している好きだったことっていうと、カナヘビと遊んだことぐらいかなぁ……。とっても普通?な男の子でした。

日本の小学校に通っていた頃は、スポーツするのが嫌だったから、休み時間もずっと教室にいて、女の子と絵を描いたり、折り紙折ったりしていましたね。でも、折り紙と絵はこの頃から得意で、やってると周りからクラスメートが寄って来てくれたんです。皆に褒められると、段々自分にも自信が付いてきました。

―アメリカに行ったのはいつですか?

5年生の2学期目でした。母親にいきなり、「父親がアメリカへ仕事に行くから引っ越す」と言われて、最初は大泣きしました。東京にもほとんど行ったことなかったような子供だったので、心底嫌でしたね。当時の私は「生まれ育ったこのムラで死ぬ!」っていう感じの人生設計を描いていたんですよ。

ところが、数週間後にはアメリカに行きたくてワクワクしていました。きっかけは覚えていませんけど、「これも人生か」と思うようになりまして(笑) 昔から、意外なところで、マイペースでポジティブなところがあるんですよ。時間が経って、変化に対する恐怖心よりも、未知の世界への好奇心が勝ったのかもしれません。お得な性格の子供だったかも(笑)

とにかくBIGだった!

―初めての海外、どんな気持ちで行きましたか?

アメリカ行く前は、「きっと猛毒を持っているでっかいハチとか、いかついマッチョマンだらけなんだろうなぁ」って漠然と思っていました。

―なんですかそれ(笑)

私はハチが苦手なんです(笑) マッチョマンだらけっていうのはゲームの影響。

実際にアメリカの大地に降り立った第一印象は、「とにかくBIG!」でしたね。周りのものが何もかも大きいんです。車も、道路も、建物も、食事も、野菜も! スケールのデカさに感動しましたよ。ちなみに、私が住んでいたところにでかいハチとマッチョマンはいませんでした(笑) のどかで、おじいさんおばあさんが沢山住んでいる平和な田舎でした。それにしても、田舎と縁がありますね。日本からアメリカに移っても、結局住んでいるのは田舎なんですから。

―実際の生活は、どんな感じでしたか?

日常の中では、学校生活がとても大変でした。Yes, No, Thank youの3つしか知らない状態で引越したので、まともなコミュニケーションが取れませんでした。転校初日に自己紹介をしたんですが、自分の発音が弱々しすぎて、先生が自分の名前をなぜか「イシカブー」って間違えて覚えてしまったんですね。日本に住んでいた頃、英会話教室に少し通いましたけど、全然役に立ちませんでした。当時の自分の英語力はcatsをキャットスと呼ぶくらいのものでしたから。

チキンだった性格も災いして、小学校は休みがちでした。そもそも言葉がわからないから、授業についていけず、辛かったです。日本人は算数が得意とか言われますけど、割り算掛け算の言い方も分からず、おかげで算数もできませんでした。英語が喋れないから、イジメられても、言い返すことすらできません。

しかし、落ち着いて考えてみると、「英語が話せれば何も怖いことはないんじゃないか?」ということに気づいたんです。それから奮起して、中学に進学してからは勉強をもっと頑張れるようになりました。英語も少しずつ話せるようなって、数学はアメリカ人の友だちに交じって出来るほどになりました。中学3年に進級する前までには、「君はHonors Class(上級クラス)で数学と化学を勉強しなさい」と先生に言ってもらえました。

―頑張った甲斐がありましたね。

周囲には本当に感謝しています。アメリカに行って、最初の方は不安だったし、イジメも受けましたが、友だちは意外とすぐにできて、学校が終われば友だちの家で遊ぶ毎日でした。今から思えば、英語もまともに話せず、運動も勉強もできない外国からきた子にあんなに優しく接してくれたなんて、本当に恵まれた環境だったと思います。

自分の絵を認めてもらえた

―その後の学校生活は、どうやって過ごしましたか?

学業に関しては、いつの間にか問題がなくなってたし、高校入学直後にESLを卒業したので、ずっと取りたかった美術の授業に、積極的に取り組みました。中学時代は美術の授業をとることができなかったので、一気にのめり込みました。そのおかげで、絵がみるみるうちに上達して嬉しかったです。このとき、既に絵は私のアイディンティティだったので、美術の分野で自分を認めてもらいたいという気持ちが強かったですね。

12年生のときには、地区で開かれた美術コンクールで入賞することができました。このコンクールには10年生の頃から毎年作品を出していたのですが、小さい頃から続けてきた絵だったので、誰にも負けたくないという想いがありました。その想いを込めて、美術の先生のアドバイスをしっかり聞きながら、地道に努力を続けて技術を磨き、入賞という大きな結果が実りました。

絵に関してはもう一点、私の学年で1番絵が上手い生徒として認められたことも嬉しかったです。卒業アルバムの企画に人気投票があって、そこで私は「学年で1番絵が上手い人」の男子部門で1位に選ばれました。絵を競いあったり、美術の先生に審査してもらったりした訳ではなく、生徒間での人気投票で決まったということは、身近にいる人たちに自分の絵を認めてもらえたということ。シンプルに嬉しかったです。

―絵を描くことが本当に好きなんですね!

大好きです! 今でも絵を定期的にネットにアップしたり、イラストコンテストに応募したりしてますよ。すごいニッチですが、北条イラストコンテストっていう、地方新聞社が主催した関東の戦国大名のイラストコンテストで審査員特別賞を受賞したこともあります!(笑)

「私がやった」に憧れる

―大学に進学してからはどうですか?

大学では国際教養学部に在籍していますが、社会学の分野が特に面白いです。日本史に強い興味をもっていることもあり、今は日本史における女性の存在や、室町時代のキリスト教について勉強しているのですが、講義はとても楽しいし、いつも新しい発見を与えてくれます。幸い、GPAも悪くない(笑)

大学に進学して一番感じたことは、世界は広いということです。それは出会う人の多様さでもあるし、それが次々に繋がっていく豊富さでもありますね。RTN Projectに関わってから他大学の学生と交流するようになりましたが、それがきっかけでNGO団体のイベントに参加してパネルディスカッションのファシリテーターを務めたこともあります。

他にも、バイトなら塾講師と翻訳に挑戦しました。サークルは合気道サークルに入って内務を務めています。あと、外資系IT企業のインターンに参加して、最優秀賞をもらったり……、とにかく人と人との「繋がり」が拡がっていっていることを強く感じますね。

―それでは、今考えていること、将来に対する思いを聞かせて下さい。

漠然とですが、人から褒められる仕事がしたいです。例えば、広告業界に身を置けば「アレは私が製作に携わった広告なんだよ!」と人に堂々と言えるし、作品によってはカンヌなどで国際的に評価される。メーカーにしても、「アレはウチの会社が作ってるよ!」と皆に自慢できる。憧れてるんです。「私が作った」「私がやった」と胸を張って言えることに。

あと、これは私の過去の体験に起因していると思うのですが、色々な場所で仕事をしたいと思っています。自分にとって、海外はとても居心地がいい。自由な空気をもっている場所でした。新しい場所で、自らが個として周囲に認められていくことの快感、人と出会い知り合うことの喜びを追い求めたいです。

インタビューアから一言

予備校で知り合いになった稲葉くんですが、こうしてライフストーリーについてじっくり話したのは恐らく初めてです。見た目はなんだかアキバ系っぽくて、頼りなげにも見えますが、実は合気道の猛者です(笑) 自分の軸はしっかりとしていて、好きなことに対する興味と熱意が強いし、色々なことにも積極的にチャレンジしている印象を受けました。これからもお互い頑張りましょう!

interviewees_g_152_profile.jpg 田中潤。1990年生まれ。アメリカ・カリフォルニア州出身。Palos Verdes Peninsula High Schoolにて生徒会長を務める。18年間のアメリカ生活から一転、帰国して09年東京大学に入学。現在同大学法学部3年に在籍。日比野勤的な、精神学、論理学の観点から憲法を解析し、掘り下げて行くメソドロジーを探求。同時に、寺尾美子教授の下で、英米法を憲法的観点並びに女性裁判官の視点から俯瞰し研究する指導を受けている。