海外生活体験者・学生インタビューvol.164~前編~

interviewees_gt_61_profile.jpg 池田祐太郎さん。1987年富山県生まれ。中学1年から高校を卒業するまで、アメリカのOR州に暮らし、Westview High Schoolを卒業。大学受験のため帰国し、千葉大学工学部都市環境システム学科に入学。現在、東京理科大学大学院イノベーション研究科知的財産戦略専攻1年に在籍。「理系」というバックグランドを活かし、「知的財産(権)」のプロフェッショナルを目指す。

プロレスラーがUFOキャッチャー

―幼少時代はどのような少年でしたか。

父親の仕事の都合で、東京だとか山梨だとか、転勤の機会が多くて。その頃の記憶っていうのはあいまいで、出身地の富山県に戻ってきて、幼稚園に通い始めてからの記憶は色濃く残っているかな(笑)

―その頃の楽しかった思い出は何ですか?

幼稚園は毎日が楽しくて! ひばり幼稚園というところに通っていて、その頃にサッカーと出会ったし、当時の先生には今も富山に戻る度に会いに行くし、それこそ当時の友人とも今では飲みに行くようになっているしね(笑)

サッカーチームのコーチはプロレスラー(笑) 毎週練習に来てくれるときには、UFOキャッチーの景品を持ってきてくれるので、それが楽しみで練習に行っていたのも覚えてる。

後は、幼稚園対抗のサッカー大会に出場したこともいい思い出だったと思う! 純粋で単純に日々を全力に楽しんでいて、やんちゃだったのだと思う(笑)

―コーチがプロレスラーですか?! すごいですね(笑) 転勤が多かったことは、現在の自分になにか影響はあると思いますか?

あまりないかな。今の自分の価値観が形成されたのはもう少しあとだと思う。もちろん基本的にはマジメだとは思うし、後は両親の教育がしっかりしていたことが、少なからず影響しているかな。

「サッカー」というキーワード

―小学校での思い出は何がありますか? 楽しかったことや大変だったことだとか。

うーん、僕の人生を語る上で「サッカー」というキーワードは外せなくてね。当時入団したサッカー少年団の監督が荒山監督という人だったのだけど。。。

―よく覚えていますね(笑)

そうそう(笑) とても厳しい人でね。とにかく基礎練習を徹底的にやらされて、結果的にはそれが実を結んで、トレセンや県の選抜に選出されることに繋がったと思っているよ。ただ、僕らの代以降は、サッカー少年団に入ってくる子どもが年々減っていって、終いにはいくつかの少年団が合併して、1つのチームとして活動していたかな。

その頃で厳しかった荒山監督はお辞めになられて、結果的に優勝だとかいい結果を残してあげることができなかったのは、悔しい思い出としてあるかな。ただ、僕を含めて、同学年の友人が県の選抜チームに選ばれたのは、荒山監督に小学校低学年から徹底的に基礎を叩き込まれたから。本当に感謝している。友人とのお酒の席でもよくその話になるしね。

その当時は純粋な少年だったと思う。もちろん人の意見に左右されることなく、考えて日々サッカーをしていたと思うけど、アドバイスを貪欲に求めて、吸収しようとしていたと思う。後は悔しくてよく泣いていたかも(笑)

―サッカー少年だったんですね! キャプテンとかも務められていたのですか?

キャプテンはやっていたよ。ただ、サッカーになると厳しく接しなければいけないときもあるでしょ? チームメイトに嫌われることに対しては、少し臆病になっていたと思う。 後は、僕だけサッカー少年団から選抜チームに呼ばれるということもあって、なんだろう、イジメとは言わないけど、僻みの類で少し嫌な思いをしたのも覚えている。

ただ、勉強はそこそこで、サッカーばかり! そこそこと言っても、週何日かは継続して学習塾に通っていたし、効率よく勉強をして、サッカーに打ち込む生活だった。単純にサッカーを楽しんだ小学校生活だと思う。

日常の一瞬一瞬が輝いてた

―中学校時代はどうでした? 嬉しかったこととか、悔しかったこととか。

サッカー部の同年代で一番に試合に出場することもできたし、県やそれ以上の選抜チームに選ばれたことも嬉しかったと思う。あとは、本当に上手いな、スゴイなと思う選手にも出会えたし、何よりサッカーの面でもそうだし、学業や普段の生活においても、自分を正当に評価してくれる大人に出会えたことも嬉しかった。

小学校と何ら変わりのない生活だったのかもしれないけど、日々が色濃く残っているし、その中で悔しかったことや苦しかったこともあっただろうけど、それを結果的には嬉しかったことに変えられていたのも事実。多くの友人ができたことは何より!

―特別に何かこれ!というのがあるわけではなくて、日常の生活の一瞬一瞬が嬉しかったこと悔しかったことの思い出だったのですね。

そうだね、選ばれたこと選ばれなかったこともあったけど、そんな日々の中であの日の練習はこうだったな、苦しかったな、充実していたなというのは日々忘れることなく、記憶にある。まあもちろん思春期にも突入していたわけだし、少し悪ぶっていることもカッコいいなとも思ったし、恋愛していたこともあって、色々思うことはあったよね(笑)

父親の仕事の関係で米国行きが決定していたけど、サッカーさえあればと思うところもあったかな。行ってしまえば何とかなるだろうという、変な自信もあって、だからこそ、嬉しいとかや苦しいとかいった感情も、感じにくくなっていたかも。ただ、何度も言うけど、結果だけは残していたことには間違いないかな。

失格の烙印を押された

―前向きですね。米国ではどうでしたか?

渡米して、手続きの関係上すぐには学校に転入できず、何もできないストレスフルな生活を送った。ようやく転入できたものの、周囲の動き1つ取っても分からないことだらけだった。父親にはあえて電子辞書ではなく、紙の分厚い辞書を持たされて、単純なアンケートを答えるだけの宿題にも夜中の2時、3時まで時間が必要だった。今となっては素敵な思い出ではあるかな(笑)

米国の生活にも少し慣れつつある頃に、ようやく生活に欠けていたサッカーも開始することができた。それと同時に言葉で全てが伝わらなくとも、サッカーで「俺はこれができるんだ!」と示すことで、周囲は称賛してくれたし、何よりただ英語ができない日本人という枠組みから、「池田祐太郎」として認めてくれるようにはなったのかな。名前も覚えてくれるようになったし。

―大変でしたね。他にはどういった困難がありましたか?

州の選抜のトライアウトを受けるチャンスをもらったのだけど、結果的には選出されて、晴れて州の選抜チームでの活動を始めることになった。ただ、チームの戦術がうまく理解できなくて、サッカーの実力以外の部分でチームを辞めさせられることになったんだよね。自分の中では、サッカーというのは、良い評価をされるべきものであったし、何より「サッカー」ではなくて、「言語」で失格の烙印を押されたことは屈辱だった。

高校の頃も、小学校からの生活と大きな変化なくて、勉強とサッカー。何よりサッカーありきではなったけど、これが日々の生活でのメインテーマではあったと思う。高校入学当初からトライアウトを経てファーストチームに選ばれたし、試合に出場することもできた。ただ、身体能力の部分で劣る部分や、やはり言語理解のところで不便があると、いくらサッカーで実力や結果を示すことができていても、どこか気持ち的に晴れない部分があるんだよね。

何より特にサッカーでの結果を重視して突き進んできたけど、サッカー以外での評価があまり良くなかったことに関して、またそれがサッカーに関連付けられて、あまり良い評価をされないことはすごく悔しい想いをした。

サッカー漬けから大学受験へ

―なるほど。祐太郎さんの中では人に評価されることが重要なのですね。

もちろん結果を重視すればするだけ、他人の評価は必要にはなってくると思うのね。何があろうが最終的には結果、もちろん自分としても周囲からの期待に応えられるくらいの結果を出すくらいの実力はあったはず。

負けず嫌いだったということもあったけど、何より1番でいるということは常に目指すべきというところであったと思うし、結果を出すことができないものや、人からの評価やフィードバックには敏感になっていたし、純粋に吸収してやろうという気持ちは強かったと思う。

将来的に何かを成し遂げたいという明確なものがあるようでなかったものの、ビジョンを大切にするようにはしていたし、確実に達成させるという強い気持ちがあったから、今もなお突き進めているんだと思う。そう思って、これからも池田祐太郎は進んでいきたいと思うし。

―祐太郎さんの中には何か「これだ!」という強い想いがあるのでしょうね。

信念なのかな。ブレさせたくないものであることは間違いないかな。

―サッカー漬けの米国生活だったのですね。帰国されてからはどうでしたか?

米国での高校サッカー、クラブチーム、州選抜、社会人チーム。まさにサッカーなくして語れない米国生活と、帰国して当初の日本の生活には、ものすごいギャップがあったのは間違いないと思う。久しぶりの日本は、高校を卒業したばかりの私には誘惑だらけで、予備校の帰国生コースでは真剣に受験勉強に取り組めていなかったと思う。当時、親にはよく説教されたし、本当に迷惑かけていたかな……。

それでも、何か危機感なのか、それともようやく目標を定めて行動することに楽しみを感じることができつつあったのか、受験勉強に対して真摯に取り組めるようになったし、何より問題一つ取っても、解答できたことに対する喜びは尋常ではなかったはず。おかげで、千葉大学工学部都市環境システム学科に入学が決定。当時の第一志望大学ではなかったものの、使命感をもって入学し、勉学に励めたと思う。

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interviewees_s_251_profile.jpg 神谷貴大。1989年愛知県生まれ。現在、中央大学法学部政治学科3年。大学2年のときにJICA Vietnam法整備支援プロジェクトのインターンシップに参加。The Asian law Student Association(ALSA)に所属しており、現在は11のALSA加盟国・地域の法学生を日本に招き、学術活動・文化交流活動・全体総会を行うAsian Forumを主催。企画の副委員長を務める。ゼミでは国際政治と現代思想を学んでいる。また塾講師として主に小中学生の指導にもあたる。